【2】 「いい加減、目を覚ませ」 聞こえた声と共に、べしゃ、と冷たいものが顔の上に落ちてきた。 その感触に驚いた彼は、うひゃぉうとか自分でも理解不能の悲鳴を上げて起き上がった。 「あれ?」 起き上がれば顔から剥がれて落ちる何か。 拾って見れば、水に浸してびしゃびしゃに濡れた布切れ。 それからずい、と目の前に押し付けられたのは、恐らく水が入っているコップだった。 そのコップを持っている手を辿って上を見上げれば、ちゃんとした明かりのある部屋の中でも真っ黒な姿の男がいる。 エルクアはそのコップを受け取って、それを一気に喉に流し込んだ。 「はー……」 「少しは目が覚めたか、この馬鹿騎士が」 声は怒っているというよりは呆れているらしく、エルクアはそっと相手の顔を見上げた。 黒い服、黒い髪、そして金茶色の瞳。 纏う空気は威圧感があって、エルクアなど、真っ直ぐ見つめられて何か言われたらそれだけで声も出なくなりそうだった。 今まで、どんな地位の高い者にあってさえ、こんな存在だけで圧倒されそうな空気を持つ人物をエルクアは知らない。 「あー……その、あんた、セイネリアなのか?」 相手は皮肉げに唇を歪める。 「違うと思うのか?」 エルクアはすぐに首を左右に振った。 セイネリア・クロッセス。クリュース最強の騎士、彼に逆らうな、死ぬより恐ろしい目に会う――その噂の人物が彼なら、それは真実なのだろうと思う。 「いや……あんたがセイネリアならそうだと思う」 初めて聞いた時は、絶対に誇張が入っていると思った彼の噂。けれども本人を目の前にすれば、すんなりと納得してしまう。それだけのものが彼にはあった。 相手は呆れた事を空気で知らせて、どっかりと傍にあった椅子に座った。 「本当に、お前は馬鹿だろ」 正面に座った男――セイネリアに、エルクアは即答する。 「あぁ、俺は馬鹿なんだ」 あっさり肯定すれば、彼は溜め息をつく。 当然だが、相当に呆れられているらしい。 「……なんで、俺を見捨てていかなかったんだ」 ――これだけ呆れて、しかも馬鹿だと思っているくせに。 恐る恐る聞けば、セイネリアはじっとエルクアの顔を睨んでくる。いや、ただじっと見ているだけなのかもしれないが、その瞳の迫力のせいか、睨まれている、と思ってしまうのだ。 「……その理由は、お前が言っていたじゃないか」 ずっと自分を睨んでいると思っていた金茶色の瞳が、一瞬だけ和らいだ気がした。 彼の瞳は自分を見ていても、自分の顔ではなく髪の毛を見ているとエルクアは思った。 そして、それで答えが全て分かってしまった。 「あぁ、じゃぁやっぱり噂は本当だったんだ」 「噂?」 「シーグルはセイネリアのオンナだって」 聞いた途端、喉を震わせてセイネリアは笑う。 その笑いが、楽しくて笑っているというより妙に自嘲じみた笑いだったから、エルクアは訳が分からなくなる。 「違うのか? だってあんたは……シーグルと同じ銀髪の俺が他の連中にどうにかされそうなのが気に入らなかっただけなんだろ?」 「そうだ」 「なら何が違うんだよ」 彼の唇に残る自嘲の笑みは消えない。 伏せた瞳は感情を見せないものの、エルクアには、その表情は何故か苦しそうに見えた。 「あいつは、一度も俺のモノになんてならなかった」 エルクアは目を見開く。 最強と言われている筈の男に今感じるのは、痛み、だった。 低い声に抑揚など殆どないのに、彼の姿を見て、その声を聞いて、どうしようもなく痛みだけを感じてしまう。 シーグルはセイネリアのオンナだ。 その噂は、冒険者の間では一時期相当有名な話だったらしい。だがセイネリアが首都を去って、シーグルが騎士団に入って冒険者として世間に姿を見せなくなってからは殆ど聞かなくなった。それどころか、セイネリアが去ったということから大抵は『セイネリアもシーグルに飽きたんだろう』なんて話をたまに聞くくらいで、セイネリアの方がまだシーグルに未練があるなんて話はどこからも入ってきた事がなかった。 いや、未練があるなんて生易しいものじゃないだろ、とエルクアは思う。 「セイネリア、あんたはまだ、シーグルの事を……」 言えば金茶色の瞳は開かれて、真っ直ぐにエルクアを見る。 「俺が本当に欲しいものなどあいつくらいだ。今までも……これからもな」 その声の揺るがない響きは、エルクアの中に深く沈んでいった。 この男が、こんな男でさえもが、これだけ欲しいと願うものがシーグルにあるのだ。本当に、何故あの青年はこれほどまでに神に祝福されて全てを持っているのだろう。――そう考えると、エルクアは余計に自分が惨めに思えた。 貴族としても騎士としても名ばかりで、中身はスカスカでなにもない。顔だけは少しいい程度で他にとりえもない。それでも愛する女性のために精一杯がんばって、けれどもあっさり捨てられて――本当に、どうしようもなく惨めすぎるとエルクアは思う。 「なんでシーグルは、そんなになんでもかんでも持ってるんだ……」 呟いた言葉に、今まで何処か遠くを見ていた金茶色の瞳が向けられる。 エルクアの口からは、自然と愚痴がこぼれていた。 「俺は……貴族といっても四男で、家から貰えるモンなんて何もなかった。だからここのカテリヤ卿のとこに養子に出されたのに、卿のとこの実の息子が見つかったって家に戻されてさ……」 一度口から出てしまうと、止め処なく口から頭の中のぐちゃぐちゃな思考が流れ出ていってしまう。 「それでもさ、こっちで将来を約束してた人がいたから……俺は一生懸命がんばって騎士団に入って、どうにか生活してけそうだから彼女を迎えにきたのに……彼女はあっさり別の男と結婚してたんだ……」 「それで、自暴自棄になって、飲んだくれてあんなところにいたわけか」 侮蔑を匂わせながら言ってくるセイネリアの言葉に、恨みがましくエルクアは彼の顔を見上げる。 「だって、彼女の為だけにがんばってきたんだ。必死になってどうにか自分で出来る事を探して、剣なんか型だけ習った程度だったのに騎士になるため努力して――」 そこまでいえば、セイネリアが押さえきれなかったように、口を押さえて肩さえ震わせて笑い出す。 それは完全にエルクアを馬鹿にした笑いだ。 「努力して――? 努力して、どうにか剣を構える事だけは出来るようになったとかか? ……これは酷いな、典型的な貴族の馬鹿息子だ。髪の色以外はあいつと全く似てるところがない――」 エルクアは笑う男をじっと見る。 確かに、それを否定出来る程の大層なことをやってはいないという自覚はある。 けれども、そこまで笑われる程侮辱される言われもない筈だった。 「仕方ないだろっ、実の息子が見つかったから帰れって言われたのが十八の時だぞ? そっからいきなり二十歳になったら自分の力だけで生きてけって言われたら、途方に暮れるしかないだろっ」 セイネリアは笑みを止めない。 「それは十八まで何もしなかったツケが回ってきただけだな。どう考えても自業自得だ」 そう言われれば反論は出来ない。確かにカテリヤ家を継げると思っていたから、十八までのエルクアといえば、最低限の勉強だけして、遊べるだけ遊んでいた。 「でも……愛してる人に裏切られたんだぞ? 愛してるから……彼女のためだけに苦労してがんばって……4年も掛かってどうにか生活できるめどが立って……ちゃんと約束通り迎えに来たのに他の男と結婚してるとか酷すぎるだろ……」 セイネリアはそれにも馬鹿にした笑みしか返さない。 くっくと喉を鳴らした笑みは、まったく同情してくれる気配がなかった。 「愛してるか。……本当に愛してるなら、なんで最初から女を連れていかなかった。しかもお前、将来を約束したとかいっても抱きもせずに別れたんだろ」 エルクアの顔が真っ赤に染まる。 「それはっ――将来がわからない状態じゃ彼女を連れていけっこないだろ。どうなるか分からないのに、か、体まで……それでだめだったら、か、彼女が傷ものに」 セイネリアが、口を押さえながら鼻で大きく息を吐く。 喉は未だに震えているものの、瞳には笑みがなくエルクアの顔を映す。 「お前にとって、その女が一番大切で離したくなかったのなら、まず女だけは何があっても手に入れてから後の事はどうにかすればよかったろ。なのにお前は自信がないから、だめだった場合なんて考えて女と別れた」 それはまさに図星というもので耳の痛い話ではあったのものの、それでも全て彼女の為を思っての事だったのだとエルクアは思う。 「それが、俺が出来る精一杯の彼女への誠意だったんだ」 セイネリアは楽しそうにエルクアの顔を見る。 エルクアは懸命に彼を睨み返そうとしたが、冷ややかに見下ろしてくる金茶の瞳の侮蔑の視線が耐え切れなくて、次第に伏目がちになってしまう。 セイネリアが溜め息をつく。 「ふん……じゃぁ聞くが、実際どうにもならなかったらどうする気だったんだ? だめだったのに女がお前を待っていた場合は、女を放置して勝手に彼女のためだと身を引いて、こんな男と一緒にならなくて正解だとか言いながら自己満足に耽る訳か? 待っていなかったから裏切り者だなんて言う以前に、だめだった時はお前の方が裏切る事が前提な訳か」 「あ……」 そう言われてエルクアは何も返せない。 確かに、自分がどうにならなかったらエルクアは彼女を迎えにくる事なんて出来なかったに違いない。そうしたら、裏切るのは自分の方だったのだ。 余計に自分の馬鹿さと惨めさに打ちひしがれて、エルクアはがっくりと肩を落とす。 その彼に、セイネリアはさらに言葉を続ける。 今度は声に侮蔑の笑みはなくなって、代わりにはっきりとした怒りの気配が読みとれた。 「……それとな、シーグルの事をお前は何もしらない。あいつが何でも持っているだと? 逆だ、あいつは何も持ってなかった。だから足掻いた、少しでも自分で掴めるものを掴む為に、意地と努力だけでどうにかしていた。……それこそ、お前が言う『苦労してがんばって』など全く比較にならないくらいの努力だ」 エルクアは呆然と彼の言葉を聞く。 「彼が、何も持ってなかったって?」 一体彼が何を持っていないのだろう、とエルクアは思う。 エルクアが見るところの彼は、何でも出来て、非の打ち所のない立派騎士様だ。中身も完璧なら容姿も家柄も完璧と、どこにケチのつけようがあるものか。 だが、そうして悩むエルクアの顔さえ見ないで、セイネリアは金茶色の瞳を細めて視線を遠くへ向けていた。 「お前が持っていて、当たり前すぎて気づかないようなものをあいつは持っていなかった。その辺の誰でもが持っているようなものがあいつには与えられなかった」 それはなんだろう、とエルクアは思う。考えてもわからない、けれども、それがわからないという事が自分が恵まれている事なのだろうかと、そう、考えられるくらいにはエルクアは自分の馬鹿さ加減を理解していた。 本当に、自分には何の価値もない。 考えても結論はそれしか出なくて、エルクアは今自分が座っているベッドの皺を見つめながら、ひたすら滅入っていく気分に溜め息をつく事しか出来ない。 この男に助けて貰ってこんな惨めな自分を知るより、あのままごろつきどものおもちゃになって死んだ方がよかったんじゃないかと思う程、頭はマイナス方面のことしか考えられなかった。 だが、じっと黙ってエルクアの様子を見ているだけだったセイネリアが、突然口調を変えて、軽く笑って言ってくる。 「で、交渉はどうする気だ?」 「交渉?」 唐突なその言葉に、エルクアは驚いて目を丸くして彼を見返す事しか出来なかった。 先ほどまでの怒りも侮蔑も声に乗せず、彼は少し楽しげにじっとエルクアの顔を見ていた。 「騎士団でのシーグルのことを俺に報告するんだろ? 俺に対してその手札はかなり有効だ。条件によっては乗ってやってもいい」 交渉――自分がそれと引き替えに望んだ事はなんだったろうと考えて、そして思い出して今更ながらにそのとんでもない発言に恥ずかしくなってくる。 でも、黒い男の顔をじっとみれば、あれは自分の本心だったとエルクアは確信出来てしまった。なにせ、これ以上なくはっきりきっぱりと言われた返事を思い出すだけで、なんだか泣けてきてしまうからだ。 「でも、あんたは俺をいらないんだろ」 「あぁ、いらないな。お前みたいな何も出来ない馬鹿は俺にはなんの価値もない」 やっぱり聞き間違いようなくはっきり言われて、エルクアはひたすら落ち込んだ。 「……だが、俺のモノになりたいというのが、俺に抱かれたいという程度の意味なら聞いてやってもいい」 落ち込んで、ベッドに突っ伏そうとしていたエルクアは、セイネリアの言葉に反射的に顔を上げた。 「え? ――あんたに、俺が、抱かれる?」 「そうだ。……抱かれたいか? 俺に」 今までのエルクア、なら。 男に自分が抱かれるなんて、たとえ冗談でだって言われたら顔を全力で左右に振って無留無理無理とわめくところだろう。今までにも誘いはあったし、危ない事もあったものの、実際自分がそういう立場になるなんて想像だけで鳥肌が立って体中が痒くなる。 ……その、筈なのに。 じっと見上げた男はただ圧倒的な存在感で、見ているだけで体が縮こまるくらい、正直怖いとエルクア思う。けれどそう思ってさえ、この強い男が自分に触れて、心も身体も隅々まで支配して熱に溺れさせくれると考えれば――それはどれほどの快感だろうかと、思うだけでエルクアは背筋がぞくぞくと震えてしまう。あの男の身体を、たとえ一時でも自分のものに出来ると考えれば、男同士のセックスに対する嫌悪感も、男としてのプライドも思考から遠く離れていく。 だから、ごくりと喉をならして。 想像だけで震える身体を、ぎゅっと自ら抱いて。 エルクアは欠片も迷うことなく答えた。 「あぁ――あんたに抱かれたい。それが条件でいい。俺は騎士団に帰ったらシーグルのことをあんたに報告する、あんたは俺を抱く」 自分は何を言っているんだろう、とそう思わなくもない。 「いいだろう、交渉成立だ」 けれども、あの金茶色の瞳がエルクアを見て、皮肉った笑みに細められるのを見たら、後悔なんかよりこれからどうなるんだろうという期待感で胸が一杯になる。ついでに心臓がばくばくとあんまり早く動くから、なんだか血が流れすぎてくらくらしてきて体がふわふわと浮いてるように妙に感覚が遠くなってくる。 --------------------------------------------- 次回はセイネリア×エルクアのHシーン予定。でもちょっと難航中。 セイネリアさんは娼館育ちで最初の師が娼婦だから、女性側の意見に詳しいのでした(==。 |