記憶の遁走曲




  【6】



 いつも通りの朝、白い息を弾ませて、シーグルはただひたすら剣を振る。
 ただし、今日はどうにも集中できていない、その自覚がシーグルにはあった。なにせ、昨日、グスとキールに注意をされてから、シーグルはずっと考え込んでいたので、それがどうにも頭から払えないでいたのだ。

『確かに最近の貴方は〜少々無自覚に色気を撒きすぎですねぇ。貴方を狙ってる側から見たらぁ、誘ってるように見えるでしょうねぇ』

 特にキールの言い方はグスよりもあからさまで、そこまで言われればシーグルだって落ち込みたくなる。
 シーグルとしては、そういう意図は、本気で、全く、全然ない。だからキールの言いようは心外過ぎて、どうすればいいのかと途方に暮れるしかなかった。
 はぁ、と思わずため息をついて、そしてまた昨日の言葉を思い出す。

『ため息禁止です。貴方のそれはまずいです』

 だから、急いで口を閉じたものの、黙って下を向いていれば余計に気分が滅入ってくる。既に剣も下してしまっていたシーグルは、本気でどうにもできずにただ落ち込むだけだった。

 だが、まだ誰も騎士団にいないだろう十分に早いこの時間に、人の気配を感じてシーグルは顔を上げる。それから、訓練場に向かってくる特徴的な人影を見つけて、シーグルは先ほどまで考えていたのとは別の意味で悩んで首を傾げた。

「おはようございます。というか、本当にお早いんですね」

 少々不機嫌そうな顔をした、長い髪の人物は間違いなく隊の部下であるリーメリで、シーグルも挨拶を返したが、明らかに顔は驚いているのが分かってしまったろうと思う。

「ウルダに聞いたんですよ。早朝なら一人だって……っていうか、こんなに早いとは思いませんでしたが」

 彼に聞いてわざわざこの時間に来たのなら、シーグルに話があるのか、それとも、昨日止められた手合せか。それが分からなくて困惑しか返せないシーグルに、やはり思い切り不機嫌な金髪の青年は、じろりと灰緑の瞳を向けた。

「剣は仕舞ってくださって結構です。こんな時間から、すぐ体動かすのはごめんなんで」
「そうか」

 ならば話があるのだろうと、シーグルは大人しく剣を鞘に納めた。

「起きた直後は体にあんま力入らないんですよ。だから、手合せはまた今度お願いいたします」

 長い金髪をかきあげた彼は、吐き捨てるように言うと本気で胡散臭げにシーグルを睨む。いくら鈍感なシーグルでさえ、これは嫌われているらしい、という事くらいは理解できた。

「もしかして俺は、何かしたんだろうか?」

 だからとりあえず聞いてみれば、リーメリは腕を組んで更に顔を顰めた。

「はぁ? 何の自覚もないんですか、貴方は?」

 もし、ここに他に誰かいたら、さすがに注意がいくくらいに上官に対しての失礼過ぎる物言いなのだが、幸い誰も他にいなく、言われたシーグル本人もその程度をわざわざ怒るような人物ではなかった。
 ただ、シーグル本人は気にしなかったとしても、どうやらリーメリ本人は気づいたらしく、そこで彼も素直に頭を下げた。

「申し訳ありません。今のは流石に失礼な言い方でした」
「いや、今は誰もいないのだから、そこまで気にしなくてもいい。それより、何かお前の気に障る事をこちらがしてしまっていたなら言ってくれないか」

 言えばリーメリは深くため息をつく。

「……本当に自覚ないんですね」

 それから、嫌そうに顔を上げて、やはりじとりと睨んでくる。

「そんだけ誘いまくってるくせに無自覚とか、おかしいんじゃないですか。ってか、冒険者時代に散々ヤられてたんでしょ、それで自覚できないんじゃどんだけ馬鹿なんですか貴方は」

 小声でぼそぼそと呟くようではあったものの、シーグルはほぼそれを聞き取れた。聞き取れたからこそ、一気に落ち込んだ。

「そんなに、その、誘っているように見えるの、だろうか」
「そうですよ。その綺麗な顔でため息ついて、男が欲しくて体疼かせてるように見えますよ、俺には」

 シーグルはショックで固まる。いくらキールでもそこまであからさまには言わなかった分、その言葉の破壊力はシーグルに尋常ではないダメージを与えた。

「そんな……つもりはないんだが」
「なら、実は襲われ願望がおありとか」

 シーグルは落ち込む。本気で落ち込む。自分に全く自覚がない分、自己嫌悪に陥るしかなりようがない。何せその手の相手に襲われる事が実際何度もあった分、覚えがない、とはいえないのだ。しかも、冬場でなければとりあえず対策として常時鎧を兜までずっとつけるという手が使えるが、鎧だけでも目立っていた中、流石にこの時期兜までは被っていられない。そもそも、会議が多いのに兜でいる訳にもいかなくて、対処のしようがないのだ。

「すまない、忠告には礼を言う」

 完全に感情のない声でそれだけをやっと告げると、考えを振り切る為に、シーグルは剣を振る事にした……が、やはりいつものように集中は出来ない。剣を構えても、体に力が入らない気さえして、そのまま踏み込む気になれなかった。

「あの、そんなにショックだったんですか」

 明らかに敵意を向けていたリーメリでさえそう聞いてしまう程、シーグルの落ち込みぶりは他人からみて明らか過ぎた。

「……あぁ、実は今までいろいろな連中に狙われていたのは、自分のせいなのかと……」
「そりゃそうでしょう」

 即答で返されて、シーグルはさらにがくりと肩を落とす。

「そうか……」

 シーグル自身、自分の容姿がそういう手合いに狙われやすい、というくらいの自覚はある。だが、自分の所作が誘っているように見える、という自覚は全くなかった。

「あの……隊長殿は、ここにくる前は冒険者として、何年かはそっちの仕事をしていらしたのですよね?」
「あぁ、そうだ」
「他人と組んだ仕事とかもされてましたよね?」
「あぁ……」

 力ないシーグルの返事を聞きながら、リーメリは腕を組んで考える。それから、顔さえ向けないシーグルに向かって一言つぶやいた。

「それで、冒険者時代どうやってのりきってたんですか」

 そこでシーグルは顔をやっとあげる。だが、それについて返事を言おうとする前に、リーメリがすごい形相で顔を近づけてきて、シーグルはその勢いに飲まれて、開きかけていた口を閉じた。

「信じられませんよ、そんな無自覚で誘いまくって襲われてるのに自覚ないなんて。ていうか、冒険者時代は、仕事仲間に押し倒されたり寝込み襲われたりいきなりキスされたり体撫で回されたり、仕事中常に警戒して心が安まる暇なかったでしょう。それともあれですか、上手く誘って操ってたとか、まさか全員問答無用でぶったおしてたとかですか?」

 長い金髪が乱れ、普段の白く涼しげな容貌を赤くして、唾が飛んでくる勢いでリーメリが一気にまくし立てる。
 そのあまりの豹変ぶりに、シーグルは一瞬、自分が落ち込んでいたことさえ忘れかけた。

「……いや、そういう目に合いそうになったことはあるが、そこまで大変ではなかったと……思う。確かに最初のうちは、後悔するくらい徹底的に痛い目にあわせてやったが……」

 それでもじとりと、リーメリはなおもシーグルを凄みのある目で睨んでくる。

「つまり、ぶっ倒した方ですか」
「どちらかと言えばそうなるか。だが、そこまで頻繁にそういう目にあった覚えはない」

 言っても、リーメリの視線は疑わしいものを見るそれで、彼が信用してくれていない事は明らかすぎた。
 だが、リーメリはふと何か思いついたのか思い切り顔を顰めて、大きく大きくため息をついた。シーグルの方もため息をつきたくなったが、今はしないようにしている為、ただ困って彼の反応を見る事しか出来ない。

「あぁ……そういえば、貴方の場合は貴族法がありますっけ」

 言われればシーグルにも思い当たるところがある。冒険者法さえ無視出来る、貴族に害を成した場合は罰せられるという上位法律だ。貴族側が悪いという確実な証拠がない場合は、貴族の方が訴えただけであっさり成立するという、クリュースでは一番保守的な、ある意味一番の悪法である。実際、こちらを狙ってきた男で、仕事の時は貴族法のせいで手を出さなかったと言われた事もあった。

「確かに、それはあるかもしれない」

 シーグルが呟けば、リーメリは心底嫌そうに頭を振った。

「なんだ、ただの天然箱入りぼっちゃんでしたか。もう少し、頭のいい人かと思ったんですけどね」

 そう言われれば、シーグルも反論のしようがない。なにせ、自分ではそんなものに頼るつもりはなくても、実際に立場だけで貴族法に守られていたことは否定出来ないからだ。
 だが、ただ困惑する事しか出来ないシーグルは、その後のリーメリの呟きを聞いて表情を変える。

「あのセイネリアをたらし込めるなんて、どれだけの男娼ぶりか見てやろうと思ったんですけどね」
「……ッ、あいつは、違う、あいつは……」

 だが言いかけても、はっきりと言葉に出来ない。
 リーメリは嫌がらせのような、皮肉げな笑みを浮かべてシーグルを横目で見る。

「違うんですか、私は感心しましたけどね。あいつのオンナって事になれば手を出せる者はいない。……って、そうですよ、貴方はセイネリアのオンナって噂があったんだ、そりゃ貴族法なんかよりもよっぽど虫避けには効いたでしょうね」

 シーグルは言葉を返せない。それもまた、真実ではあるからだ。逆にセイネリアに目をつけられたからこそ、彼の言う虫よりも厄介な相手に目を付けられた、と言ったところで、彼には理解してもらえないと思えた。

「本当に、そんな無自覚な貴方が、あの男をどうたらし込んだのか聞いてみたいですね」

 シーグルは力なく首を振る。最早返答する気力もない。

「なんですか、私はその点については本気で貴方を尊敬さえしてるんですよ。何せ、なまじいい顔に生んで貰うとですね、この国じゃ馬鹿な連中に目を付けられてオンナの代わりにさせられる。それを逃れる手段がないなら、より自分が優位になれる利用価値のある相手を選ぶのが上策でしょう。だから、あのセイネリアを狙って取り入る事が出来た貴方の考えと手管は、ぜひ見習いたいと思ってたんですけれどね」

 目を細めて、ただ黙ってシーグルは彼の顔を見つめる。
 独り言のような勢いでまくし立てるリーメリだが、その彼の顔が、今にも泣きそうになっているのにシーグルは気づいていた。
 彼の気持ちがわかる、などという傲慢な事をシーグルは思わないが、彼がその容姿のせいで、今までどれだけ嫌々男に体を好きにされたかは分かってしまった。その度に傷ついて、誇りを失ってきた事を理解出来てしまった。

「……俺は嫌だった、だからいつでも抵抗した」

 シーグルが言えば、更に彼は顔を赤くする。

「勿論嫌でしたよっ、でも抵抗すればどうにかなる場合だけじゃないんですよっ」

 実際に涙が見える彼の顔を真っ直ぐ見つめて、シーグルははっきりとした声で告げる。

「……あぁ、勿論、それでも自分を守り切れない事は何度もあった。相手を憎んだ事も、死にたいと思った事もある。それでも、お前と同じ結論は出せなかった。たとえ体はもう守るだけの価値がなくても、心が拒絶する。嫌なものは嫌だと、屈しなければ心だけは守れると……そう思っていたんだ」

 最後の言葉が自嘲に歪んでいくのが、冷静さを殆ど失っていたリーメリにもわかった。

「思って、いた、ですか」
「あぁ、そうだ」

 自嘲に歪めたままの唇で軽く笑い、シーグルは真っ直ぐにリーメリの瞳を見つめる。

「その考え方の場合はな、心が一度でも折れれば全てが終わるんだ。それだけに縋っているからこそ、一度堕ちれば後はもう全てを投げ出して終るしかない。……本当は……お前の考え方の方が強いのかもしれない。だが、俺にはお前のように割り切る事は出来なかった……だから、俺は一度全てを投げ出してしまった」

 何が正解か、どう生きてくれば正しかったのか、どうすれば今よりもよい結果になったのか、その時も今もシーグルにはわからなかった。ただ、あの時、自分の力だけでは立ち直る事が出来なかっただろうとシーグルは思う。
 だから、頭に浮かぶ黒い影に向けて、シーグルは誓うしかない。

「俺が今、こうしてあるのは俺の力じゃない。俺は弱かった。弱かったからそのまま堕ちて、全て終わりにしようと思った。だが……どんなに堕ちても、生きていれば終わりではないと、どれだけの最低まで落されても、生きていればどうにでもできる可能性があると、そう、言われたんだ。だから俺は、強くならなくてはならない。たとえどんな目にあっても、もう二度と無様に全てを投げ出す訳にはいかないんだ」

 シーグルの話を聞く内に、リーメリの顔から激しい感情が消えていく。溢れ出るような怒りと憤りの色が消えて、残った悲しみを瞳に僅かに浮かべるだけで、彼は静かにシーグルの言葉を聞く。瞳は細められていき、やがて完全に閉じられると、彼は大きくため息を吐いて、一言だけ呟いた。

「想定外、でしたね」

 言葉の終わりに、その口元が薄い笑みを浮かべる。

「腕はいいと聞いてましたから、私は貴方を、騎士になる為に純粋培養された世間知らずの貴族の坊やか、そんなフリをして男を誑かしまくる女キツネのどちらかだと思ってたんですけれどね。……どうやら、そのどちらでも無かったようです。貴方は貴方で……多くの苦労と苦い思いをなさった上で、素で見た目のままの人物なのですね。……なんだか、裏を暴いてやろうと思ったこっちが馬鹿みたいじゃないですか」

 言いながら顔を軽く顰めてみせた彼だが、それは先ほどまでとは違い、ただ見せつけるためだけのモノだというのがわかる。まるで憑き物が落ちたような……というと言い過ぎかもしれないが、やけにさっぱりとした、けれども少しだけ不機嫌さは残る顔で彼はシーグルを見ると、その変わりように面食らっている銀髪のまだ若い彼の上官である青年騎士に、丁寧に、恭しく礼をした。

「数々の非礼な言葉、どうぞお許し下さい。貴方が上官として敬うに値する人物という事はよく分かりました。以後、よろしくお願いいたします」

 他の誰かがいれば、それも相当失礼な言い方だというつっこみが入るところだが、やはりシーグルは気にしなかったので、その言葉を素直に認められた言葉として取る事にした。

「こちらこそ、よろしく頼む」

 といって、手を伸ばして握手をしたのだが……手を握って離そうとした途端、リーメリは顔を近づけてきて、こそりと、シーグルの耳に囁いた。

「ですが、その無自覚な色気の垂れ流しはどうにかしたほうがいいと思われます」
「ど、どうすれば、良いのだろうか」

 唐突な行動に、思わずどもりながら返してしまえば、リーメリは耳の傍で難しい顔をしたまま、やはりこそりとまた言ってくる。

「そうですね……ため息をやめて、相手の前で伏し目がちに憂い顔を見せるのもやめて、服装はそれ以上きっちりという訳にはいきませんから仕方ないとして……後はまぁ、お強いのですからもっと堂々自信満々という態度を心がける、くらいでしょうか。あぁ、あんまり相手をじっと見ないようにとか、むやみに他人に触れないようにだとかもそうですね。後は絶対に、誰かと二人きり、なんてことは避ける事、それから……」

 考え込みながらのリーメリの言葉を、シーグルは真剣な顔で頷きながら聞いた。彼自身、同じような苦労をしてきているせいだろうか、グスやキールに比べて具体的な内容はとても有り難いと思う。
 顔は未だに不機嫌そうなのに、こんなに親身になって考えてくれるあたり、彼も実はかなり面倒見がいいタイプの人物なのかもしれない。というか状況的に自分にも似た経験があった分、こちらを放っておけないだけか。どちらにしろ、彼とは今後上手くやっていけそうだとシーグルは思う。
 ……いやそれ以上に、他の者には聞けないこの手の話を相談出来そうだと考えれば頼もしくも思えた。

「ありがとう、具体的に教えて貰えるととても参考になる」

 だからシーグルが素直に言えば、リーメリは驚いた後に顔を赤くしてから思い切り顰めて、何故か怒り出す。

「何こんな事で部下に礼なんか言ってるんですか、貴方ご自分の立場と地位を分かってますか? 逆に生意気な私に怒ってもいいくらいの状況ですよ、まったく……」

 口調は確かに怒っているものの、気配ではまったく怒っていない事が分かる。なんだか、彼の性格が分かってしまった気がして、シーグルは僅かに笑みを浮かべた。

「俺は有難いと思ったのだから礼を言っただけだ。嫌だったのか?」

 リーメリは目を大きく開けて、それから顔を逸らして、そっぽを向いたような状態のままぼそりと呟く。

「嫌ではないです」

 やはりその頬が赤くなっていたので、シーグルは思わずくすりと鼻を鳴らしてしまった。




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リーメリさんとシーグルの回。
シーグル、部下としてリーメリさん攻略完了(==+



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