失くした日




  【8】



 口元に涎さえ垂らす醜悪な男の顔を憎々し気に睨みながら、シーグルは男の様子をただ伺う。そうして、男がシーグルの足首を一度離し、代わりに腿に手を掛けて足を広げさせた後、そこへ顔を近づけてきたタイミングを計って、シーグルは男の頭、こめかみ近くを狙って膝で蹴った。

「が、ぁっ」

 頭への衝撃は流石に鍛えた男であっても一瞬怯む。更に追加で男の股間を蹴り上げれば、ワーナンはそこを抑えて地面に転がった。
 シーグルはすぐさま起き上がる。
 そうして、脱ぎ捨てられた服から剣を抜き、地面に這いつくばる男に向けて振り上げ、振り下ろした。

「ぃっ」

 それを目の片隅で見たワーナンは、股間を抑えたままかろうじて横に転がって避けた。それでも剣は腕を掠めて、血が僅かに飛ぶ。

「おいやめろっ、もう何もしねぇっ、だから止めろっ」

 これ以上なく情けない格好で声を張り上げる男を、シーグルは冷たい目で見下ろした。

「おかしいな、敵に情けは掛けるなとお前は教えてくれたじゃないか」

 言いながら、意識せず、シーグルの口元には笑みが湧いていた。
 もう彼を師として敬う気などなく、ただ醜い男を見下すように侮蔑の視線を向ける。

「ぐあっ」

 シーグルの剣が、地面の男を刺そうとする。
 男は必死に避けているものの、体勢が不利過ぎて無傷ではいられない。剣が下りる度に、ワーナンの腕や腹には傷が増え、血と泥が肌に模様をつけていく。中には少し深めの傷もあるが、それを痛がって押さえる余裕さえ彼にはない。

「言ったろ、俺はただ雇われただけだ、お前の敵って訳じゃないっ。悪いのはお前のじーさんだ、俺に当たるのはお門違いだっ」

 ふと、この状況でこの男がどんな言い訳をする気か興味が湧いて、シーグルは向けた剣を彼の目の前で止めた。

「仕事だからやっていただけというには、随分と楽しそうだったじゃないか」
「気分だよ、気分。こーゆー事を嫌そうにやってちゃ勃つモンも勃たなくなるだろ」
「……俺に尊敬の目を向けられる度、裏切られた時の俺の顔を想像して興奮していたんだろ? 言い訳は見苦しいな、仕事を受けたなら、失敗して殺される危険も承知済みのはずだ」

 下らない男だと、シーグルは思った。
 それは失望だったのだろう。
 シーグルはワーナンのことを強い男だと思っていた。戦場を知っている本物の戦士、死に対する覚悟が出来ている者だと。

「ざけんなっ、ガキ犯すだけの仕事で殺されてたまるかよっ」

 必死の形相で怒鳴る男は、どこからどうみても無様だった。
 つまるところ、彼にとって死ぬと思っていない仕事だったからこそ、あんな偉そうにしていられたというところなのだろう。

「なぁ、止めろ、止めてくれ。俺ァ、こんなとこでまだ死ぬ気はねぇ。なぁ、気が済まねぇだけだっていうなら謝る、いくらでも……」

 表情の動かないシーグルを見て、もう逃げられないと思った男は、今度は必死でシーグルに懇願する。
 こんな弱い……男だったのか。
 この程度の男が自分を壊そうとしていたなんて、許される筈がなかった。
 ここにきてからずっと、来る日も来る日もただ縋るように強くなろうとしてきた自分の苦しみと悲しみと希望を踏みにじろうとしたのがこの程度の男だなんて、許されていい筈はなかった。

「お前には、意地も、誇りも、何もないのか。なら何を守りたいんだ? 何のために騎士になった、そこまで強くなったのは何の為だ?」

 シーグルは感情を消した瞳で男を見ると、静かに、そして正確に男に向けて剣を構える。
 次の狙いは外す気はなかった。

「……めですっ、シーグル様っ、おやめ下さいっ」

 聞きなれた声が聞こえて、シーグルは剣を止めた。駆けてくる人の気配を背で感じて、ゆっくりと剣を下す。
 振り向いて、暫くすれば見えてくる騎士の姿に、シーグルの口元は皮肉な笑みをうかべた。

「そうか、おじい様の代わりにお前が見ていたのか、レガー」

 呟く声には感情がない。
 幼い頃からの師は何も言わず、自分のマントを外してシーグルの裸体を包むと、軽く抱きしめてきた。
 けれどシーグルは彼の体を押して離し、再びワーナンを睨むと剣をつきつけた。
 安堵しかけていたワーナンは、倒れたままのみっともない格好であとずさる。

「レガー、この男はな、前に、敵には情けを掛けるなと俺に教えたんだ。だからこいつを殺す事で、俺はその教えを実行してやる。いずれ戦場に出ても迷わない為に、今ここでこの男を殺すんだ……それで俺は強くなれる」

 剣を少し前に出せば、ワーナンは引き攣らせたような声を上げる。
 醜い体を隠すことも出来ずにいる男の姿は、その立派な体躯だからこそ更に無様に見えた。上からのしかかかられていた時はあんなに恐ろしく見えた男の性器は、すっかり萎れて男の股間で項垂れるだけのただの醜悪な肉塊だった。

 ――所詮、この程度の男だったのだ。

 だが、剣に力を入れようとした途端、止めようと強く抱き締めてきたレガーの言葉でシーグルはそのまま固まることになった。

「ここは戦場ではありません。この男は、貴方がリパの教えを破ってまで殺す相手ではありません。どうか、収めてください」

 シーグルの顔が僅かに歪む。

 シーグルはリパ信徒だ。
 貴族の殆どがリパ信徒であるからそれは普通の事であるし、両親も、レガーも、祖父もリパ信徒だった。
 そして、リパは慈悲の神だ。当然、殺生は禁じている。とはいえ、自分が生きる為の殺生はやむをえないものとしてはいるし、信徒であってもその辺りは都合よく解釈する者が多い。特に大抵がリパ信徒である筈の貴族達は、その教えを知ってさえいないのでは思うような輩ばかりだ。
 けれど、シーグルがリパ信徒であるのは、別に貴族だからではなかった。両親のもとにいた時からリパ信徒であったのだから当然な流れだともいえたが、リパの教えはシーグルにとって、ただ単に信徒だからというだけのものではなかった。

 シーグルの母は、リパの準神官だった。

 母親はいつでも、幼いシーグルを叱る時、諌める時、リパの名を出した。だからシーグルにとって、リパの教えは母の言葉でもあったのだ。この家に来て、会う事が出来ない母親との繋がりがリパの教えを守る事でもあったのだ。

 シーグルの剣を持つ手が震えて、そうしてゆっくりと下ろされていく。
 それを見たレガーは、シーグルの前に出て、無様に地面に倒れている男に言い放った。

「お前の仕事は今日で終わりだ、報酬は事務局の方から受け取れ。本気で殺される前に、荷物を纏めてさっさと屋敷から立ち去るがいい」
「あ、あぁ、わ、わかった……」

 ワーナンはやっとどうにか起き上がり、いそいで服を持つとその場から立ち去った。
 下肢を曝したまま、みっともなく走っていく男の後ろ姿を、シーグルはなんの感情もなくただ見ていた。

「あの程度の男、貴方が殺してその名に傷をつける事はありません。あの男にはそんな価値などありません」

 言われて、シーグルは笑う。
 成程、いくらどうとでも出来るごろつきでも、殺せば跡取りとしての名に傷がつくか。
 心は楽しいと全く思っていないのに、唇が笑みにどうしても歪む。
 レガーに見張らせていたのは、想定外の事態が起きた場合に備えての事だったのだろう。彼がここで止めに来たという事は、シーグルがあの男を殺すまでするのはマズイと祖父が判断たという事だ。
 けれど。

「レガー、お前は、あの男が殺されるのは止めるのに、俺がされようとしていた事は止めなかったんだな」

 レガーの顔が強張る。
 その反応は肯定以外の何物でもない。

「お許しください、シーグル様、私は……」
「何故謝る? お前はおじい様の忠実な部下だ。だから、俺に何があってもおじい様の命令が一番で絶対なんだ。今更言う事でもなかったな。……あぁ本当に、それだけの事だったんだ」

 欠片も楽しくなどないのに、心は冷たく凍えるだけなのに、唇の笑みが消えない。それどころか笑い声さえ自然と出てくる。

「そうだ、俺は何を期待していたんだろう。おじい様は、俺がどれだけ何をしても、結局認めてくださる気なんて最初からないんだ。ただ跡取りとして血を絶やさないで家を続けていければ、俺の中身なんかどうでもいいんだ。いやむしろ、中身が空っぽの方がおじい様にとっては都合が良かったんだな」

 どうしてこんなに笑いが止まらないのか、そして、どうして笑っているのに涙が出るのか――シーグルには分からなかった。けれども、ここで笑う事を止めてしまったら、心が闇に堕ちてしまいそうで、笑っていないとみっともなく泣きわめきそうで、笑うしかなかった。
 そんなシーグルを、ここに来た時からずっと師と呼んでいた騎士が強く抱きしめてくる。

「シーグル様、そうです、私は所詮あの方の部下です。それはどう取られても仕方ありません、私を侮蔑して下さっても嫌悪して頂いても構いません。けれどもどうか、あの方の事は嫌わないで下さい」

 幼い頃からいつも助けてくれた力強い腕。彼だけは自分を子供としてみてくれて、いつでも気にかけてくれた、心配してくれた。
 けれども所詮――それさえも祖父に言われただけだったのかもしれない。

「貴方のおじい様は、ご自身の息子であるお父上をとても愛しておられました。内面も外見もどこをとっても文句の付けようがないよく出来た息子でらしたアルフレート様は、あの方の誇りであり自慢でもありました。ですから――アルフレート様が家を捨てた時の、裏切られたという思いはあの方の精神に深い闇を落としました。アルフレート様を深く愛して信頼していたからこそ――裏切られた反動で、あの方は変わりました。アルフレート様とよく似てらっしゃるシーグル様に辛く当たるのはその所為です。ですが、どうかあの方を嫌わないでください、アルフレート様を愛しているからこそ、あの方は怒り、アルフレート様と同じ轍を踏まない為に、シーグル様を殊更家に縛ろうとしているのです」

 レガーの声は涙が出ていないのが不思議な程震えていた。
 抱きしめてくる彼の腕は温かくて心地よいのに、けれども心はそれを嬉しいと思わなくなっていた。

 だってこの腕は自分の為のものじゃない。
 結局はこの腕は祖父の道具なのだから。彼にとっては一番は自分ではないのだから、仕方ない。
 ……信じすぎたら裏切られるのだ、そう、祖父が父から裏切られたように。

「あの方は怖いのです。再び愛する者に裏切られる事が、貴方を失う事が。だからこのような事を考え付いたのです。貴方にとって許せない事であっても、あの方の思いも分かって差し上げて下さい。もうあの方には貴方しかいないのです……ですからどうか、貴方のおじい様を嫌わないでいて下さい」

 祖父を嫌うなというなら、憎むなというのなら。――なら、自分は何を憎めばいいのだろう。
 こんな自分という人間の人格さえ無視したようなことをされて、それでも憎むなというなら、自分のこの怒りは何処へ向かえばいいのだろうか。

 シーグルは呆然と空を見つめる事しか出来なかった。レガーの声は聞こえていても、妙に現実感を感じず、きちんと理解していても心に響かない。妙に冷め切った思考だけが、彼の言葉を冷静に聞いているだけだった。

「ならレガー。俺は何を憎めばいい?」

 口元に笑みを浮かべたままそう聞き返せば、忠実な祖父の部下である騎士は黙る。

「おじい様の所為じゃなければ、俺がこんな目に会うのは誰の所為なんだ? おじい様を裏切った父が全部悪いと思えばいいのか? それとも――俺がおじい様の期待に値しない無様で非力な人間なのが悪いのか? なぁ、何が悪いんだ?」

 こちらの顔を覗き込んできたレガーに、シーグルは笑い掛ける。そうすれば、彼は即答で返す。

「貴方は何も悪くありません」

 シーグルはそれに喉を震わせて笑った。
 祖父の部下だというなら、彼は今肯定すべきだった。祖父なら間違いなく、ここでシーグルが悪いのだと肯定してきた筈だった。そうすれば、話は全て綺麗に収まるのに。
 シーグルは今度は皮肉るように、自分の方から彼の顔を覗き込んだ。

「なら、父さんか? 父さんが母さんを選んだのが悪いのか?」

 レガーの顔は益々強張った。

「それは――アルフレート様にも深い事情がおありなったのです。それに、あれだけ貴方を愛していらしたお父上を憎まないで下さい」

 酷く都合のいい理論だと、シーグルは思う。
 誰も悪くないのに、誰も幸せになれない。いや、彼の言い分では、皆苦しんだから悪くないとでも言うのだろうか。何の問題の解決も出来ない、ただの心の誤魔化しでしかない理論、いわゆる綺麗ごとという奴だ。

「誰も悪くない、誰も憎むなというのがお前の答えか? なら俺は、誰も憎まずに、大人しく壊れておじい様の人形になれば良かったのか?」

 レガーはまた即答する。

「違います」

 ――なら、どうして助けてくれなかったんだ。
 喉に詰まったその言葉を、シーグルは飲み込んでレガーに笑い掛ける。

「何故否定するんだ。おじい様は、俺を壊してしまいたかった。だから、おじい様の部下であるお前は、それを否定出来ない筈だ」

 助けてくれないなら、祖父の部下でしかないというなら、いっそ否定をしないでほしかった。もっと冷たく、祖父の意志のままとでも答えてくれれば良かった。……本当は助けたかったのだなんて、そんな事をこちらに悟らせないでくれれば良かった。

 そうすれば、彼を憎めたのに。

 シーグルの顔から笑みが消える。というよりも、表情自体が消える。
 もはや、何も言い返す事も出来ず項垂れる事しか出来ない、ずっと剣の師だった騎士に、表情と同じく感情のない声で最後に告げる。

「もういいレガー。お前はおじい様の言う事さえ伝えてくれればいい。それ以上の言葉はお前からはもう、いらない」

 レガーは顔を上げて何かを言おうとし掛けたが、冷たいシーグルの瞳を見て、無言でまた顔を伏せた。
 シーグルは彼から離れると、一人で屋敷の中へ向かった。

 誰も悪くないんじゃない、皆が悪いんだ――いっそまだ、そう考えた方がマシだった。
 祖父を裏切った父が悪い。孫を人間扱いしない祖父が悪い。助けてくれないレガーが悪い。食えない貧弱な体の自分が悪い。何も憎めないよりも、全てを憎んだ方がきっと気が楽なはずだ。

 ――けれど、そう思っても、結局シーグルは誰も憎めなかった。

 体に掛けられた、たった今心から切り捨てた師のマントを固く握り締めて、口から漏れそうになる嗚咽を飲み込む。
 心は、どこまでも冷たくて、寒さしか感じる事は出来なかった。




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この時点までのシーグルはまだ、考え方に子供っぽい『甘え』が残ってたのが、このエピソードで完全に子供心を閉ざしてしまう訳です。
次回は事の顛末というか、エピローグ的なお話で終わりとなります。



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