【5】 クォンが傭兵団に帰って来てから2日後、セイネリアは彼を自分の執務室に呼びつけた。 彼の役割は一応セイネリアの護衛となっているが、セイネリアは彼に暫く治療と休養を命じていた為、彼と会ったのも2日ぶりとなる。 久しぶりになるセイネリアの前にくれば、やはり笑顔のまま笑う青年に、セイネリアは自分の椅子に座ったまま口を開いた。 「さて、クォン・テイ・ナグト、お前が本当に望むモノの為に命を掛けるというのなら、俺を殺す以外の選択肢をお前に示そう」 彼の笑みがそれに少しだけ引き攣る。 「どういう意味ですか?」 「俺はな、俺が価値を認めた者には個別に『契約』を持ちかけている。本人が一生俺の命をきき、俺に絶対的に従うのなら代わりに何か一つ願いをきく、という契約だ。勿論願いはなんでもとはいかない、俺に出来る事でその人間の価値に見合ったものであればだ」 クォンはその黒い瞳を大きく見開く。それは確実に演技ではなく、本心からの驚きを現していた。 「お前が俺を殺す代わりに叶う筈だった事、手に入れる筈だったモノを言ってみろ。その望みの為に全てを掛けられるというのが本当なら、『契約』の為の願いとしてそれを言ってみるといい。お前の願いがお前自身の価値に見合うなら、俺がそれを叶えてやる」 黒い瞳は益々大きく見開かれる。驚愕というよりも呆然として、驚きと言うよりもどこか遠くを見つめて、彼の唇がゆっくりと開かれる。 「俺、は……俺の望みは、彼女を救う事、です」 言葉は感情が抜けて、たどたどしく紡がれていく。 「なら、お前の言う『彼女』とは誰だ?」 そこで彼はビクリと肩を跳ね上げる。それから次第に体全体がガクガクと震え出す。噛み合わない歯を鳴らして、それでも呟くように彼は言う。 「彼女……彼女は、レイサー……」 「レイサー・ルス・ナジック。商人の娘だな」 「そう……俺は彼女に救われたんです。彼女がいたから、俺は殺されずに済んで……でも彼女は目が見えなくて……俺は彼女の目代わりになると約束して……でも彼女はいってしまった……」 呆然と見開かれた瞳はその焦点も合わない。明らかにおかしい様子の彼に、だがセイネリアは驚く事もなく怠そうにゆったりと腕を組むと、話が飛んで整合がつかなくなってきている彼の言葉をまとめて言った。 「お前が首都に出てきた時、頼まれた暗殺の依頼をお前は失敗した。その時捕まったナジック家で、お前はナジックの娘で目の見えないレイサーに庇われた。それで家の中でも面倒がられていたレイサーの守り役をやるという事でお前は命を救われたわけだ。だがやがて、レイサーは落ちぶれ貴族の元に嫁に出された、そして……」 その続きをセイネリアが言うのを遮るように、クォンは叫んだ。 「そうだ、彼女の夫となった貴族は酷い男だった。彼女と結婚したのは金目あてで、目が見えないなら分からないだろうと連日他の女と寝て、窓一つない暗い部屋に彼女を閉じ込めたんだ」 口調さえ変わって何かを憎しみの瞳で見つめる男に、セイネリアは苦笑しつつも質問する。 「それで、お前は『彼女』を救う為、何故俺を殺さなくてはならなくなったんだ?」 クォンの目はまだ現実に帰ってこない。 それでもセイネリアの質問はきちんと聞いて理解出来ているようで、彼は頭の中の記憶を少しづつ思い出すようにたどたどしく話す。 「それは……そう、ナジックがセイネリアを殺せば彼女を呼び戻してくれると言って……今やっている仕事に邪魔だから殺してこいと、そうすれば相手の男の非を神殿にいいつけて離婚させて家に戻してやると」 セイネリアはそれに思わず喉を震わせて笑った。 「それで、そんな傷モノの娘はどうせ誰も欲しがらないだろうから、お前にやるとでも?」 「そうだ、俺は彼女に誓ったんだ。一生傍にいると、彼女を守ると」 それにセイネリアは笑い声で返す。それはすぐに止まらず暫くその声が部屋に響いたが、やがてセイネリアは笑いを納めると、まるで目を見開いたまま石像のようにじっとしている男に言ってやる。 「……まぁ、暗殺者になりそこなったガキと、目の見えない女の間に何があったのかは知らんが、お前とその女が『愛し合って』いたとしてだ――随分と都合が良すぎる話だと思わないか?」 全く動かなかった青年が、セイネリアの言葉に反応して口を開いた。 「そんなの分かっている、俺じゃ殺せないと分かっててそんな都合のいい条件を出したという事くらい。実際はただ単に俺が殺されてくると思って言っただけだの方便というのは分かってる」 それにセイネリアはまた笑う。今度は喉だけを軽く揺らして、明らかに彼への嘲笑の意味を込めて笑う。 「違うな。そんなにあり得ないくらい都合がいい条件、いくら馬鹿でも取引が仕事の商人が言う訳がない。あいつらならもっと後で中身を都合よく解釈できるようなあやふやな条件を付きつけてお前を騙す。いいか、その条件がお前にとって馬鹿みたいに都合がいいのはな……それが、お前の妄想だからだ」 ただでさえ動かなかったクォンの体は固まったまま、その目の焦点があわないどころか小刻みに揺れ出す。明らかに狂者の目だなと思いながらも、セイネリアは抑揚を消した声で彼に告げる。 「レイサー・ルス・ナジックはもう死んでる。嫁にいった先の貴族の元で、逃げようとして転落死だ」 そこでやっとクォンは動く。 座っていた椅子から立ち上がり、身を乗り出して叫ぶ。 「違う、彼女はまだ生きてるっ、あの貴族の家で俺が行くのを待ってるっ」 それに返すセイネリアの声は、どこまでも平坦で冷たい。 「その貴族の家ももうない、レイサーの夫だった男はお前が殺したんだ。ついでにナジックもお前が殺した」 「何を言っているんだ、ナジックは俺にセイネリアを殺してこいと……」 「死人がそんな事言う訳がない。全てお前自身が作り上げた作り話だ。お前が作って、自分にそう思いこませた」 再びクォンの体がガタガタと震え出す。ひどい寒さの中にいるように彼の体の震えはますます酷くなっていく。 だが、やがて、ぽつりと。 「……彼女は、本当に死んだのか?」 先ほどまでと違い、別人かと思う程抑揚のない声でクォンが呟く。今の彼の目は焦点が合わないというよりもどんよりと濁り切り、まさに『死んだ目』というに相応しかった。 「あぁ、目の見えないレイサー・ルス・ナジックという娘なら1年前に死んでいる。ついでに言えばその時のお前はクォンとは名乗っていなかった。タウ・ラン、東の少数民族ススラヤの出身だな。当時のお前はまだ冒険者登録をしてなかったからな、ナジックや娘の夫を殺して、逃げて、別人として登録したんだろう。元が黒髪だったという特徴が違っていたというのもあって、カリンでさえ調べきれなかった」 からくりが分かれば簡単な話だが、タウ・ランとして彼が首都にいた時代に彼に会った者が殆どいない為に情報の集めようがなかったというのがある。どうやら彼はレイサーの傍にずっといた為、ナジックの屋敷ではレイサーの部屋にほぼ一緒に閉じ込められた状態だったらしい。 クォンはセイネリアの顔を見ずに声だけ聞くと、意志の抜け落ちた瞳で、やはりなんの感情もない声でまた呟いた。 「タウ・ラン……」 この様子だともう使いものにならないかと、セイネリアはここで大分彼に対しては諦めていた。 「首都に来たばかりの時はそう名乗っていたんだろ? まぁその名も仮の名かもしれんが。ススラヤ族といえば、周辺国家に暗殺者を派遣して成り立っている部族だしな」 そこで彼の瞳に急激に生気が戻る。 黒い瞳の焦点が合って顔に表情が戻った途端、彼はかつて黒かったろう今は白い髪の頭を抱えて、叫んだ。 「あぁあああああああああああ」 瞳から涙を流し、顔に悲しみとも恐怖ともつかない表情を張り付かせて、ただ彼は叫ぶ。叫びすぎて咳き込んで、吐きそうにえづいて、声が掠れてきても彼は尚叫ぶ。まるで、彼の中に帰ってきた現実を拒絶するかのように。 ――さて、ここから帰ってこれるか。 セイネリアは考える。 多少壊れていようが道具として使いものになるならまだ『契約』の価値はある。彼女を生き返らせろなどという頓珍漢な事を言い出したりせず、彼の価値並に見合った願いを言ってくるようなら契約してもいい。 叫んで、床につっぷして、酷く咳き込んで叫ぶ声が出なくなると、今度はクォンは笑い出した。声が出ないから喉を引き攣らせるように、肩を震わせて泣き声のような声で笑った。 「はは、は……そうですか、彼女は死んだんですね」 口調が普段のものに戻ったことを確認すると、セイネリアは溜め息をついた。 「まだ、思い出せないか?」 聞けば今度は顔を上げて彼はセイネリアの顔を見る。 泣き笑いのような顔をして、それでもちゃんとセイネリアを見返してきた黒い瞳は、まだどこか狂気は残っていたものの、一応受け答えができる程度にはマトモに戻ったように見えた。 「あぁ――いえ、思い出しました。思い出したんですが……それでも、それを認められないんですよ俺は。認められないからこそ、彼女の遺体を確かに抱いた筈なのに、その感触が思い出せないんです」 そうして彼は今度はにこりとちゃんと笑うと、床に膝をついたまま、その両手を天井に向けてあげ、何かを掴むように広げた掌を握り締めた。 「でも、あいつらを殺した事は覚えています。逃げまどう彼らを片端から殺して、殺して、殺して……手を腕まで真っ赤に染めて、どうして最初からこうしなかったのかと後悔した事は覚えてます」 言って、腕を下ろすと同時に彼の顔から笑みが消え、その黒い瞳は遠くに向けられる。 「そうすれば、彼女を約束通り外に連れていってあげられたのに。そうすれば、草原を走る事も、草の匂いを嗅ぐ事も、体いっぱいに風を感じる事もさせてあげられたのに」 震える声はけれども感情がなく、彼の精神がまだ安定しきっていない事を表していた。 それでもまだこの程度なら使えないわけでもないか、とセイネリアは試してみることにした。 「お前は一応、警備隊には貴族殺しとして追われる身ではある。まぁ名前も外見も違うからな、奴らに捕まえられるとは思わんが、逃げて生きる生活が嫌なら俺がお前の居場所をやろう」 じっと遠くを見ていた彼の瞳が、それでセイネリアに向けられる。 「俺の……居場所?」 「あぁ、俺と契約するなら、お前が逃げずに安心していられる場所をやろう。まぁ簡単にいえばお前を匿ってやるという事だ。それとも、ほかに望みがあるか?」 「望み、ですか……望み……」 その言葉を反芻するように呟いた彼は、暫く考えて、突然満面の笑みを浮かべて言う。 「なら、殺して下さい。貴方の手で」 セイネリアは不快げに眉を寄せた。 「それは契約違反だな、俺の役に立つ気があるなら望みをかなえてやるといったんだ。死にたいだけなら勝手に自分で死ね」 すると彼は残念そうに眉を寄せると、それでも苦笑しつつ聞き返してくる。 「やっぱり、だめですか?」 「当然だ」 セイネリアの不機嫌な声を聞いても、彼はまたにこりと笑って、少し困ったように首を傾げる。 「でもですね、残念な事に俺はもう貴方のお役に立てそうにないんですよ。彼女のいないこの世界はもう何もなくて、一秒だって生きていたくなんかないんです。……でも俺は自分で死ぬ訳にいかなくてですね、だから殺してもらえないと困るんです」 それを満面の笑みで言うのだから、確かにこの男は壊れているのだろう。 「自分で死ねない理由は何だ」 「彼女が言ったんです、私に何があっても貴方は私を追って自ら死んだりなんかしないでね、と」 「勝手な言葉だな」 「そうですね、彼女を唯一恨むとしたらその言葉でしょうか」 笑みを崩さないまま、それでも少しだけ寂しそうに彼が言うのを聞いて、セイネリアの抑揚のない声にも僅かばかりの苛立ちが混じる。 「それで、自分を殺してくれる者を探していたわけか」 その苛立ちには気づいたらしく、クォンも少しだけ笑みを苦笑に変える。 「えぇ、でも俺も故郷の誇りがありますからね、あまりに下らない人間には殺されたくはなかったんですよ」 「それで俺か、迷惑な話だな」 今度は明らかにセイネリアが不快を露わにすれば、クォンの声から抑揚が消える。表情は崩れないものの、平坦に、つぶやくように感情のない声が紡がれる。 「貴方の強さは有名でしたし……それに、貴方の目の中には俺と同じものがありましたから」 笑顔の中、開けば分かってしまう唯一笑っていない黒い瞳がセイネリアの顔を真っ直ぐ見つめる。その中には絶望があり、その中には空虚があった。それを理解した途端、セイネリアは自分の唇を笑みに歪めた。 「いいだろう。ただし契約ではなく、うるさいハエ共を潰してきた報酬代わりとしてその願いを聞いてやる」 光など何もなかった男の瞳に喜びが灯る。目尻から涙を流し、彼は本当に幸福そうな笑みを浮かべた。 そうして彼は、最後に笑顔のままでセイネリアに言った。 「本当に残念です。彼女が生きている内に貴方に会えていたなら、俺は喜んで貴方と契約したのに」 --------------------------------------------- ってことで真相の解明編。次は後日談。 |