【6】 珍しく最小限に明かりを絞ってある主の執務室へ入った途端、カリンは椅子に座って目を瞑っているセイネリア本人を見つけて、最初は彼が寝ているのかと思った。だからそっと、書類だけ置いて部屋をあとにしようと思った彼女は、近づいていつの間にか開いていた金茶色の瞳に気づいた時には驚いてその場で固まってしまった。 「終わったのか?」 声には彼『らしく』感情はない。 「はい、クォンの遺体はススラヤ族の者が引き取りにきて、先ほど受け渡しが終わったところです」 言われてセイネリアは、だるそうに椅子に座り直した。 セイネリアも仕事上、ススラヤ族とは多少の繋がりを持っている。だから彼らに連絡を取れば遺体を引き取りたいと交渉してきて、セイネリアはそれでまた彼らに対して『恩』を売れた。 クォンの望む通り、彼はセイネリアの暗殺に失敗して殺された、という事にしておいた。依頼主は不明で彼自身には特に罪を問う気はないと伝えれば、ススラヤ族側は安堵して、セイネリアに感謝の意と遺体の交渉に関する文書を送ってきた。 仕事の失敗で死ぬのなら――そしてそのターゲットが大物であればあるだけ、彼らの部族では名誉ある死として称えられるらしい。実際は、女の為に壊れて自ら殺されたいと願った愚かな男だと考えれば、彼らの風習に馬鹿馬鹿しさしか感じられない。それでも、死んだ男が望む通りの死を迎えられた事を馬鹿にする気にはなれなかった。 「気に入りませんか?」 黙っているセイネリアを見て、カリンが尋ねてくる。 「別に。ただ奴の思った通りになったなと思っただけだ」 そこでカリンは、少し苦笑する。 「なら何が気に入らないのでしょう?」 セイネリアは、それで自分が我知らず顔を顰めていた事に気がついた。感情が漏れるなんてまずない事が自分に起こり得た事にセイネリアはそこで少し驚いた。だがそこでその理由を考えて、思いついた事に今度は思い切り嫌そうに顔を顰めた。 「そうだな、気に入らないんだろうな、俺は」 「何を、ですか?」 「奴が言う――愛している、というのがだ」 カリンはそれに、僅かに眉を寄せて悲しそうな顔をした。 「あいつはただ縋っていただけだ。奴はナジックの元にいた時、娘の世話役であると同時にナジックのおもちゃでもあった。まぁ、娘に手を出さないようにという意図もあったのかもしれないが、娘のいる部屋の中でナジックに抱かれるのがあいつの日常だった。おそらくその時点でもう壊れかけていたんだろう」 だから縋った。娘に情を注ぐ事によってどうにか自我を保っていた。そうだからこそ娘がいなくなった時点で壊れた――セイネリアはそう思った。 「彼が縋っていたのが、彼女への『愛』だという事でしょうか?」 そう尋ね返してきた彼女の言葉を、セイネリアは鼻で笑う。 その金茶色の瞳には、馬鹿にするという意図よりも憎しみに似た感情があった。 「それが『愛』かどうかなどは知らん。ただ、ずっと家の中に閉じこめられたまま外に出たこともない無知で無垢な娘は、暗殺者として育ったあいつが崇拝し情をそそぎ込むには都合がよかったんだろうよ」 そんな主を悲しそうに見ていたカリンは、そこで逡巡しながらも思い切って口を開いた。 「彼が壊れていたというなら……恐らく暗殺者として育てられた時点で壊れてはいたのです。我々は、人として壊れるように育てられるのです」 カリンもまた、暗殺者を育てて仕事を請け負っていた貴族の元で育てられた。だからこそ分かる事がある。 「彼がナジックの元にいた時、逃げられなかったとは思えません。彼は逃げなかったんだと思います。娘の傍にいたかったが為に……娘の傍にいる為なら、自分がどう扱われようとおそらく彼にとってはたいしたことではなかったのです。彼がナジックを殺したのが娘が嫁ぐ時ではなく娘が死んだ時だったのは、娘が自分の意志で嫁ぐ事を選び、彼がその幸福を信じて送り出したからだったのではないでしょうか」 確かに、考えれば。 クォンの能力からして、ナジックに閉じ込められて逃げられなかったとは思えない。ただ娘が欲しいだけだったらさっさと娘を攫うなりする事は出来たろう。それをしなかった理由は――問えば問う程、自分はわざとその答えを外していたのだとセイネリアは自覚する。 「全て、娘の為、か」 孤独な娘の為に、何をされてもずっと傍にいようとした。 娘が悲しむだろうから、その父親を殺さなかった。 娘が自ら行くと言ったから、嫁ぐ彼女を送り出した。 そして、娘の望みだったから、彼女を追って自殺も出来なかった。 「それが、あいつが娘を『愛して』いたからだというのか」 カリンはそこで悲しそうな瞳のまま、唇だけで笑い掛けてくる。 「はい、私はそう考えました」 その言い方は主を否定した訳ではなくあくまで自分の意見だと、上手く返されたことにセイネリアは軽く笑った。 「そういえば俺に殺されて笑ってたのはあいつで三人目だ……その内の二人は壊れていた訳だがな」 それは誰かと主に聞こうとしたカリンは、彼の顔から表情が全て消えている事で言葉を飲み込んだ。それは自分が聞くべき事ではないと判断し、自身が傷ついた事に気付かない主の為に彼の傍に跪き、肘掛けに置かれた彼の腕に手を置いて頬を擦り寄せた。 セイネリアは目を閉じた。 そうして彼は思い出す、かつて自分が殺したもう一人の男の顔と、それから……母と呼んでいたこともあった女の事を。それらは思い出しても何の感情も沸かないただの記憶の一場面だった筈なのに、今のセイネリアには何か胸に広がるものがあった。言葉にするなら『苛立ち』としか言えないが、水面下で蠢く鉛のような重い感情ははっきりと形にする事が出来ずその事が自分を苛立たせる。これではまるで姿の見えない敵に怯えているようだと思って、その例えを思いついた自分が馬鹿馬鹿しくなる。 「俺の欲しいもの、か……」 言った直後、思い浮かんだ黒い剣の姿に、セイネリアの心に疼くように浮き上がろうとしていた『何か』の感情が消える。自分を苛立たせていたソレは、正体が分からぬまま無意識の海に沈んでいく。 最強という名の呪いに僅かの望みも取り上げられた男は、何も感じなくなった心の代わりに平静を取り戻した。 「そんなものがある筈がない」 見つかる筈がない、と呟いて。 ススラヤ族では、子供の頃から暗殺者になるべく訓練を行い、成長した者達は周辺各国に送りこまれる。 タウ・ランはその優秀さ故、クリュースの首都に出て、単独で仕事を請け負う事を許された。訓練の始まった頃からその時期の子供達の中ではいつでも一番の腕だと言われてきていたから、彼は自分の能力に絶対的な自信があった。 けれどセニエティに来て、最強の男だというセイネリア・クロッセスの噂を聞いた後それがどれ程の男だろうかと見にいった彼は、その姿を見ただけで分かってしまった。金茶色の瞳が周囲を一瞥するのを見ただけで、この男には勝てないと思ってしまった。それで自分の未熟さに動揺して、意地になって受けた最初の仕事を失敗した。 それから二年後……再びあの男を見る機会があった。 その時の彼は丁度死に場所を探していた時で、最強の男に殺されるのならありだなと考えて見にいった程度だった。けれどその本人を見て、彼には分かってしまった。 初めてみたときは男のその瞳に底知れぬ恐怖しか感じず、ただ本能として戦ってはならない相手だと思っただけだったのに、今見た男の瞳に彼は『空虚』が見えた。いや、本当はソレは前の時からその瞳にあったのかもしれなかったが、その時には分からなかっただけだったのだろう。ただ今の彼には、男の中に虚しいまでに広がる飢えと絶望が見えた。 それで彼は思った、男が何に飢え、何に苛立って、そして何に絶望しているのかを自分なら教えてやる事が出来ると。そして、自分は男が欲しいものを手に入れたのだと、それを見せ付けて死んでやろうとも思った。勝てないと思って見ただけで負けてしまった男に、自分が勝ったと言ってやりたい。 それはあの男にとって、意味のない事かもしれない。 けれど、あれだけの男の心に、何か波立たせるだけのものが見せられたら面白いではないかと、彼はそう思った。 そうしてタウ・ランは、クォン・テイ・ナグトとしての別の自分を作り上げた。あの男に嘘は通じないと思ったから自分を騙した。 END. --------------------------------------------- これでこのお話は終了です。セイネリアさんが心が揺れたあるエピソード的なお話ですね。 そろそろセイネリアをがっつり書く話&エロが書きたかっただけの話ともいいますが(汗)。 ちなみに、ススラヤ族のイメージは忍者の里です(笑) |