自治体規模で消えた村(2) その2
自治体規模で消えた村(2) その2
福井県旧西谷村中島,黒当戸,本戸
中島の廃村記念碑の横にある西谷村の廃村経緯の看板です。簡素な中にも味わいが感じられます。
2000/5/3 旧西谷村中島,黒当戸,本戸
-
# 7-16
-
巣原−中島間のR.157は,1987年秋,1988年秋に通ったときは,国道番号の看板を木に吊るしていたダートの悪路だったのですが,今は綺麗に整備された広い舗装道となっていました。しかし,ほとんど通る車はなく,走りはすこぶる快適です。
巣原からおよそ6km,視界が広がって,雲川(温見川,熊河川が合流して雲川),笹生川の合流点にある中島(Nakajima)の集落跡に到着です。
「西谷村史」によると,中島の1954年(昭和29年)の世帯数は156戸,762人。村役場もあった西谷村の中心集落で,1965年(昭和40年)の奥越集中豪雨で中島の家屋の九割以上が流出,土砂埋没などの被害を受けたことが西谷村全村離村へつながったと言えます。
-
# 7-17
-
中島には,「麻那姫(Manahime)湖青少年旅行村」という大規模なキャンプ場があり,GWということで,たくさんのテントが見えます。
キャンプ場の反対側(山側)には,古びて廃屋状態となった作業小屋が8戸ほど,「萬霊之碑」という離村記念碑,さらに廃村の説明の看板がひっそりと立っています。古い地図を見ると,記念碑あたりに村役場があったようです。
廃村の説明の看板は,1988年秋に初めて見たのですが,簡素な中にも味わいがあり,私がその後の廃村に興味を持つことになるにおいて,大きな役割を果たしています。ある意味,徳山村にある水資源開発公団が立てた看板とは好対照です。
-
# 7-18
-
キャンプ場を歩いてみると,はずれのほうに,土に埋もれた橋がかかっており,欄干を見ると「奥河原橋」「昭和41年8月竣工」とありました。四〇・九(1965年9月)奥越集中豪雨から数えて11ヶ月目,この橋ができた頃,まだ西谷村は復興をめざすか全村離村するか,決めかねていたことでしょう。
真名川ダムの建設決定は,1966年6月。その後,「西谷ニュータウン」建設構想,中島小中学校再開(1967年4月)などを経ながら,1969年12月には全村離村がなされたということで,徳山村と比較すると,ダム建設決定から離村までの年月の短さが際立っています。
-
# 7-19
-
中島からR.157を離れて県道大谷秋生大野線を山に向かって3kmほど進んで,小道を入ると黒当戸(Kurotoudo)の集落跡がありました。ここも県道から入っているので,よほど注意深く行かないと,見つけることはできないでしょう。
「西谷村史」によると,黒当戸の1954年(昭和29年)の世帯数は22戸,122人。離村のきっかけは1965年(昭和40年)の奥越集中豪雨です。
植えられたスギのため集落跡は薄暗く,作業小屋は5戸ほどあるものの,のんびりする気分にはなりません。そんな薄暗い集落跡の高台に見つけた,草木に埋もれてまず人目に触れることはなさそうな「萬物流転」という離村記念碑は,妙な説得力を持っていました。
-
# 7-20
-
黒当戸の出発時は午後5時。「ぼちぼち終わりにしなければ・・・」と思いながら,「もうひとつだけ」と,県道をさらに山に向かって5kmほど進むと,県道の看板は本戸(Motodo)となったのですが,今ひとつ場所が特定できません。
「どうしようかな」と迷っていた頃に,道の左手に大きなお地蔵さんを発見。台座には「本戸地蔵尊」とあり,このお地蔵さんの裏手のスギ林に入ってみると,石垣など,家屋があった跡を見つけることができました。しかし,廃村もじっくりと六つも回ると,ちょっと疲れてきた感じがします。作業小屋や離村記念碑は見つからなかったのですが,お地蔵さんに出会えたので,終わりにする決心がつきました。
-
# 7-21
-
「西谷村史」によると,本戸の1954年(昭和29年)の世帯数は10戸,40人。西谷村の十一集落の中でもいちばん小規模で,跡がはっきりわからなかったのはそのせいかもしれません。離村のきっかけは,1957年(昭和32年)の笹生川ダム建設とのこと。
日も暮れてきたということで,残りの集落巡りは明日に回すことにして,中島まで戻ってR.157を下って,真名川ダム(雲川,笹生川が合流して真名川)を越えてしばらく走ると,突然視界が開けて,大野市堀兼という普通の農村になりました。山間部と盆地の境目が,これほどはっきりしているところも珍しいのではないでしょうか。久しぶりに山から里へ下りてきて,正直私もホッとしました。
-
# 7-22
-
大野市街に入って,吉田さんのお店に着いたのは午後6時少し過ぎ。お酒を飲みながらいろいろなお話をしたのですが,「徳山村では,ダムの工事も本格的になっていました」というと,「それはよかったのう」という答えが返ってきたのが印象的でした。
吉田さんは1950年(昭和25年)に中島中学を卒業し,炭焼きの暮らしを経て鮮魚商となり,1970年(昭和45年)より大野市で料理店に加えて民間結婚式場を経営されています。往時の山の暮らしと現在の町の生活を比べると,率直な答に思えるところです。
この夜は「バスジャック」事件があり,「えらいことをしでかすもんじゃのう」と,生中継のTVにかじりついていました。
-
# 7-番外(2) R.157 巣原−中島間(1988年秋)
-
国道番号の看板を木に吊るしていたダートは昔日のこと。今は「誰が通るの」というような立派な舗装道になっています。
「廃村と過疎の風景」ホーム
|