自治体規模で消えた村(2) その1
自治体規模で消えた村(2) その1
福井県旧西谷村温見,熊河,巣原
温見の作業小屋からはマキストーブの煙が出ていました。声をかけるとおばあさんがお茶をご馳走してくれました。
2000/5/3 旧西谷村温見,熊河,巣原
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# 7-5
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根尾村3泊を経て,岐阜・福井ツーリング4日目(福井1日目)は,いよいよ温見峠を越えて福井県旧西谷村の探索です。
旧西谷村から山を降りた大野市には,吉田吉次さんという西谷村上笹又出身の料理店経営の方が住んでいます。私は,中日新聞ホームページの地域ニュースの「西谷の紙すきを再現へ道具を復元」という記事(1998年4月1日付)で,吉田さんのことを知り,2000年2月に「西谷村史」を見せていただくため吉田さんのお店に足を運んで,あわせていろいろな話を伺いました。
紙漉きの道具や原木(コウゾ,ミツマタ)も見せていただき,この道具で作った名刺をいただいたりしました。
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# 7-6
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2月末には,大野市から西谷に向かう道(R.157)は雪に閉ざされていたのですが,今回は西谷から大野市へ下って行くことになります。
吉田さんとの再会は,この旅の目玉ということで,この日の朝に連絡をとりました。
根尾村(樽見)から西谷村までは,メインルートのR.157が能郷−黒津間で通行止ということで,上大須−越波経由で向かいました。
まっすぐ向かえばよいのですが,「根尾村に来て,薄墨ザクラを素通りしてはいけない」ということで,薄墨公園に行って,しっかり「根尾村郷土資料館」にも足を運ぶと,折良く2日前に居酒屋で会った資料館の方と再会できました。
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# 7-7
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越波から猫峠を越えて,大河原の分岐で温見峠へ向かう道を選ぶと,いよいよ西谷村への入口です。
温見峠の標高は1017mもあるため,途中の道の端には雪が残っており,流れを渡る箇所では,ずいぶんまとまった量がありました。
薄墨公園からおよそ2時間で到着した峠の頂はとても寒く,「これより日本海側」という雰囲気がよくでています。
温見峠はクルマの時代になってから栄えた峠で,昭和30年代頃までの根尾村−西谷村の交通は,蝿帽子(Haiboushi)峠という大河原−小沢−本戸間の歩道によってなされていました。もちろん今は,蝿帽子峠は廃道になっています。
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# 7-8
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温見(Nukumi)の集落跡は峠から7kmほど,R.157が温見川を渡るよりも峠側にあり,すぐに見つけることができます。
「西谷村史」によると,温見の1954年(昭和29年)の世帯数は26戸,166人(西谷村全体では461戸,2568人),1963年(昭和38年)の豪雪(三八豪雪)をきっかけにして離村となったとのこと。西谷村の中でもいちばん山深く,標高は650mもあります。
13年前(1987年)の秋,初めて見た温見の白山神社と脇の「ふるさとの跡」の碑には,何とも言えない迫力を感じたのですが,来訪も三度目のちょうどお昼頃ということで,今回はひたすらなつかしい感じがしました。
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# 7-9
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温見には,今も作業小屋(宿泊もできそうな小屋を便宜的にこう言うことにします)が6戸ほどあるのですが,これは昔の住民の方が農作業をするために市街地からやってくるときに用いるもので,すべて温見が廃村になった後に建ったものです。
私が見つけた分では,往時からの遺物は,神社の祠とタイル貼りの風呂の跡くらいでした。雪が残っている合間にふきのとうがたくさん顔を出していて,季節は春が来たばかりという感じです。
煙が上がっている作業小屋があって,その前でおじさんが焚き火をしていたので,声を掛けて当たらせてもらって昼食となりました。
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# 7-10
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福田さんという温見出身のおじさんは,丸岡町からこの日今年初めて農作業をしにやってきたとのこと。80代とは思えない若々しさです。
さらにおばさんが出てこられて,「お茶でも飲んでいきなさい」と声を掛けてくれたので,小屋に入って一服。
小屋にはお湯が湧かせる煙突付きのマキストーブと,流水が流れたままになった水道があり,とてもワイルドです。電気も通じているので,何週間かは泊まりこむこともできるのでしょう。試しにストーブにマキを入れさせてもらいました。
古い建物は残っていないものの,生活が残っている温見には,十一集落の中でいちばん往時の西谷村の匂いが強く残っている気がします。
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# 7-11
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次の熊河(Kumanoko)は,温見からR.157を4kmほど下り,熊河川を渡るよりも峠側にありますが,知らないと見過ごすことでしょう。
「西谷村史」によると,熊河の昭和29年(1954年)の世帯数は29戸,176人,温見と同じく1963年(昭和38年)の豪雪(三八豪雪)をきっかけにして離村となったとのこと。それにしても「くまのこ」とは何とも可愛いらしい響きの名前です。
初めて行った1987年の秋には存在に気が付かず,1988年の秋には立札しか見当たらなかった熊河の集落跡ですが,今回はしっかり観察したからか,たくさんの石垣の中に石段を見つけて,調べてみると養休寺というお寺の跡でした。
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# 7-12
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作業小屋は1戸だけあって,おじさんが居たので声を掛けて,村の様子を伺うと,R.157からはわからなかった学校跡と高台にある神社の跡(祠と離村記念碑)などを教えていただくことができました。
坂東さんという熊河出身のおじさんは,最近定年退職となって,時間に余裕ができて熊河に通うことが多くなったとのこと。
熊河の離村記念碑「ふるさとの碑」は,非常にわかりにくい場所に建っていたのですが,高台から見下ろすと,お寺や学校を含めて,家々が建っていた頃の集落の風景を想像することができました。
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# 7-13
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熊河の少し先からは,R.157は立派な規格の国道になっていました。どうもじわじわと改良工事が進んでいるようです。熊河からR.157を4kmほど下ったあたりの右手に川に沿った枝道があり,分岐から急な坂道を上がって1kmほどで巣原(Suhara)の集落跡に到着しました。
R.157に接していないということで,巣原を尋ねたのは今回が初めてです。「西谷村史」によると,巣原の1954年(昭和29年)の世帯数は55戸,366人と規模が大きく,離村は1965年(昭和40年)の奥越集中豪雨をきっかけとしています。歴史的には,巣原,熊河,温見の三集落は,川を下った中島よりも巣原峠(歩道で現在は廃道)を越えた池田町に縁が深く,「奥池田」と呼ばれたそうです。
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# 7-14
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まず,目に入ったのが赤い屋根の大きな建物。看板には「大野市森林組合作業員宿舎」とありました。「赤い屋根」の隣には,学校跡があり,門柱をくぐると,校庭跡の真ん中に離村記念碑「故さとの碑」がありました。
傾斜地のスギ林の中,他にこれというものは見当たらなかったので,バイクで道を少し下ると,川の近くに古びた作業小屋があって,小屋のすぐそばまで行ってみるとお寺の跡らしき草に埋もれた広い敷地があり,さらに傾斜を上って「赤い屋根」に向かうと,「赤い屋根」の近くにはいくつもの家の敷石に混じってタイル貼りの風呂の跡がありで,じっくり探すといろいろなものが残っていそうです。
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# 7-15
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「赤い屋根」よりさらに坂を上ると,さらに作業小屋が4戸ほどありましたが,端から端までは車道でも300mはありそうです。
スギはおそらく離村後に植えられたもので,集落跡の雰囲気が損なわれることから,私はどうも好きにはなれません。
巣原出身の方と出会えなかったのも残念なところです。温見や熊河のようにいろいろお話を伺うことができると,興味深い出会いがあったかもしれません。逆に,温見や熊河のように集落跡がスギに埋もれていない場所には,人も戻って来やすいのかもしれません。
「奥池田」三集落跡は,ゆっくりじっくりと回ったので,巣原を後にしたときはもう午後3時を過ぎていました。
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# 7-番外(1) 西谷村の廃村経緯の看板(1988年秋)
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この廃村経緯の看板は2000年現在,あの頃のままです。やがては徳山村の看板のようなスマートなものができるのでしょうか。
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