自治体規模で消えた村(2)
自治体規模で消えた村(2) 〜 福井県旧西谷村
旧西谷村の中心集落 中島の離村記念碑です(この辺りに西谷村役場がありました)。
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# 7-1
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岐阜県揖斐郡徳山村とともに「自治体規模で消えた村」である福井県大野郡西谷(Nishitani)村。この二つの村は,実は,隣り合わせの村です。直接つながっている道こそありませんが,西谷村中島→温見峠→根尾村長嶺→馬坂峠→徳山村本郷は60km,山岳路とはいえ2時間ほどで走ることが可能です。
近隣の自治体(福井県大野市・和泉村・池田町,岐阜県根尾村)にも多くの廃村があることから,西谷村・徳山村・根尾村の三村の境にそびえる能郷白山を中心とした東西に長い広大な無人地帯が「廃村密度日本一」の地域ではないかと私は考えています。
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# 7-2
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西谷村は福井県南東部,九頭竜川支流の真名川流域にあった村で,「西谷」の地名は九頭竜川本流(和泉村方面)を東谷としたときの相対的な名前です。中島,上笹又,下笹又,黒当戸,本戸,小沢,下秋生,上秋生,巣原,熊河,温見の十一の集落からなり,面積は198ku,1960年の国勢調査(国調)の人口は1605人でした。
中島(西谷村の中心集落)から,R.157を下って山から急に盆地に変わる大野市堀兼まで15km,最寄の市の大野市(市街地)まで24kmということで,市街地までの距離は徳山村の半分ほどですが,山は徳山よりやや険しく,中島の標高は500m弱です。
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# 7-3
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西谷村が消えた理由は徳山村よりも複雑なのですが,比べてみると動きが早いことがわかります。
まず1957年(昭和32年)の笹生川ダムの建設で小沢,下秋生,上秋生が離村,1963年(昭和38年)の豪雪で長期間に渡り市街地との連絡が途絶えたことをきっかけにして熊河,温見が離村,そして1965年(昭和40年)9月の集中豪雨で村の中心部の中島,上笹又,下笹又の家屋の九割強が流出,土砂埋没の被害を受けてしまいました。再建構想もあったものの,翌年の真名川ダム建設決定により村全体での離村が決まり,1970年7月に大野市に編入されました(結果,大野市は多数の廃村を含むことになりますが,「過疎地域」ではありません) 。
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# 7-4
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私は西谷村には1987年9月(和泉村→伊勢峠→中島→温見峠→根尾村)と,1988年11月(根尾村→温見峠→中島→大野市)に足を運んでいるのですが,西谷村を知ったきっかけが,1988年に中島で偶然見つけた廃村の説明の看板だったこともあり,強い愛着を感じています。
そんな西谷村への三度目の訪問は,これまた三度目という徳山村に訪れるのにあわせて,2000年GWの岐阜・福井ツーリングによりなされました。福井1日目には,2月にインターネット(中日新聞の記事)の縁で知った西谷村上笹又出身,大野市(市街地)在住の吉田吉次さんの家を尋ねて,泊めていただきました。
【旧西谷村の軌跡】
1.1957年・・・笹生川ダム建設のため小沢,本戸,下秋生,上秋生の4集落が離村。笹生川ダム着工。
2.1960年頃・・・笹生川ダム完成(小沢,下秋生,上秋生は水没,1960年の国調人口は1605人)。
3.1963年・・・三八豪雪により甚大な被害を受ける。これをきっかけにして熊河,温見の2集落が離村(1965年)。
4.1965年9月・・・四〇・九奥越集中豪雨により壊滅的な被害を受ける(1965年の国調人口は1126人)。
5.1966年・・・真名川ダム建設が決定,村全体の離村が決定する。巣原が離村。
6.1969年8月・・・中島,黒当戸,上笹又,下笹又の4集落が離村。西谷村は無住となる。
7.1970年7月・・・大野市に編入され,西谷村は消滅。
8.1972年・・・真名川ダム着工。
9.1978年・・・真名川ダム完成(下笹又は水没)。
その1
旧西谷村温見,熊河,巣原
その2
旧西谷村中島,黒当戸,本戸
その3
和泉村影路,箱ヶ瀬,中伊勢,上伊勢
〜旧西谷村の東隣,和泉村の集落跡〜
その4
旧西谷村上秋生,下秋生,上笹又,下笹又,大野市上若生子,下若生子
その5
池田町河内,田代
〜旧西谷村の西隣,池田町の集落跡〜
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