前日光・晩秋の廃村 日帰りひとり旅

前日光・晩秋の廃村 日帰りひとり旅 栃木県鹿沼市梶又,足尾町横根山


廃村 梶又(かじまた)に往時のまま残る小学校跡です。



2005/11/8 鹿沼市梶又,足尾町横根山

# 3-1
「学校跡を有する廃村」の全国調査,「地元の関東地方は早目に進めよう」と調べたところ,平成17年10月末までに関東1都6県で見出せた「廃校廃村」は17か所となりました。内訳は群馬県9か所,栃木県3か所,埼玉県1か所,東京都と神奈川県が各2か所です(茨城県,千葉県はゼロでした)。東京都の2か所(八丈町 八丈小島の宇津木・鳥打)と埼玉県の1か所(旧大滝村小倉沢)を除く14か所は,まだ行ったことがありません。
「冬が来る前に,どこかに足を運ぼう」と考えて,目指すことになったのは,栃木県鹿沼市のダム関係の廃村 梶又(Kajimata)と足尾町の戦後の開拓集落の廃村 横根山(Yokoneyama)です。この辺りは,東京方面から見ると日光の手前になるので,前日光と呼ばれます。

# 3-2
21世紀になってからの廃村 梶又を知ったきっかけは,平成16年9月に地元栃木県在住の樋山利男さんからいただいたメールです。樋山さんは「五月の風」Webの「上南摩」で,南摩(Nanma)ダムというダムに沈みゆく村の様子を撮った写真を公開されています。
初めて「五月の風」Webを見たとき,鹿沼市という場所柄のせいか,集落が沈むほどのダムが建設されるというイメージは湧きませんでした。
しかし,調査を進めているとき,梶又をはじめとする上南摩町のダム建設予定地の新旧の住宅地図を見比べると,平成15年版には70数戸あった家屋が,平成17年版ではほとんど記されておらず,「ダム建設のための移転が進められたばかりなんだ」という実感が湧きました。

# 3-3
一方,横根山を知ったきっかけは,国会図書館での調査です。「角川日本地名大辞典 栃木県」の足尾町横根山には「昭和23年に60戸入植,翌年39戸離農,21戸残留,酪農を中心にダイコン,キャベツを生産,副業に林業,昭和48年開拓農協解散」との旨が記されていました。
横根山は鹿沼市と粟野町の境界に位置する標高1373mの山の名前でもありますが,集落跡の場所がはっきりしないため,昭和48年の地形図を調べると,足尾の市街地から10km以上離れた粕尾峠の近く,標高1200m超の地に横根山開拓集落と学校の記号(文マーク)を見出すことができました。
ツーリングマップで調べたところ,梶又と横根山の距離は35kmほどであり,日帰りツーリングでも2つともめぐることができそうです。

# 3-4
梶又・横根山行きの日帰りツーリングを実行したのは,秋も深まった11月8日(火)。気温が高く良い天気ということで,前日に年休を取りました。
南浦和出発は,オフィスへの出社時刻とほぼ同じ朝8時少し過ぎ。浦和ICから下りの東北道を走ると,9時10分には栃木ICに到着していました。栃木ICから梶又まではおよそ30km。鹿沼市南摩から南摩川沿いのゆるい上り坂を進み,上南摩までは平凡な秋の農村の風景です。
上南摩小学校の前でひと休みして,頭のモードを「途中の景色もしっかり見る」にチェンジ。少し先の集落 室瀬には「南摩ダム絶対反対」「ふるさとをなくさないで」という看板が立っていましたが,家屋の移転が終わった今,看板は反対運動のなごりのように見えました。


# 3-5
室瀬より先がダムの建設予定地で,集落名は手前から三ツ石,粟沢,梶又,西之入,笹ノ越路です。梶又小学校跡はほぼ真ん中にあります。
最初の廃村 三ツ石で最初に目をひいたのは,「南摩ダムメモリアル樹木」と記されたサクラの木と「この付近にゴミや生き物を捨てないで下さい」と書かれた看板です。地域の方になじみの樹木は,工事の進捗にあわせて水没しない場所へ移植される様子です。「ゴミや生き物」は,荒っぽい表現ですが,ダム建設予定地にはゴミの不法投棄や捨てネコなどが後を絶たないようです。
プレハブの地区会館が残る三ツ石には,少し前まで家屋が建っていたことを示す電柱・電線があり,廃村の空気を肌で感じました。


# 3-6
粟沢の地区会館,ゴミ集積所の跡,梶又の消防の詰所,つる草がからまった火の見やぐらなど,見かける度にバイクを止めて写真を撮ったり探索したりしたため,上南摩小学校から梶又小学校跡までの4kmの道のりは,40分かかりました。
梶又小学校跡到着は11時少し前。小学校前には標語の看板に横断歩道。平成16年に閉校したばかりの小学校の木造校舎は,往時の姿のままに残されていましたが,周辺にあった家屋はすべて取り壊されており,取り残されたようにも見えます。あたりに人影はなく,通り過ぎるクルマもほとんどありません。風もほとんどない穏やかな秋の陽射しは,静けさを引き立たせていました。

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# 3-7
梶又小学校はへき地等級無級,児童数61名(S.34),平成16年春の最後の卒業式では,2人の卒業生を5人の在校生が見送ったそうです。
南摩ダムは堤高87m,貯水量5100万立方m,竣工予定は平成22年。標高は200m弱と山は浅く,川も細いわりには大きなダムです。校庭から見上げる青空にはダム建設予定地らしくない広さが感じられましたが,11月の陽射しは低く,校門や校庭は山の長い影に覆われていました。
校舎は水資源機構が管理しており,警備会社のマークが入っています。20分ほど探索して,印象に残ったのは向かって右側の「うさぎのおうち」と,左側の二宮金次郎像です。「うさぎのおうち」のはげかけた絵には,私としては珍しくせつない気持ちになりました。

# 3-8
小学校跡を離れて,梶又集落跡を探索すると,ススキの合間にいくつかの家の敷地が見られました。「ダム便覧2005」Webには,南摩ダムの水没戸数は76戸とあります。山の縁に小さい看板が見えたので,確認すると古いお墓があり,看板は墓地の改葬を勧める公告でした。
木造校舎とともに往時のまま残されているのが,浅間神社です。歴史が感じられる赤い鳥居をくぐると,祠に続く長い石段がありました。
県道を左に折れて,西之入にも立ち寄ってみました。西之入で印象に残ったのは,ダムの水面下になる部分の木が切り倒された山の姿と,家の敷地跡に咲くコスモスでした。1時間少しの探索の間,梶又・西之入では誰かと会うことはありませんでした。


# 3-9
小学校跡に戻って,朝礼台に座って昼食を食べて,横根山を目指して梶又を出発したのは12時少し過ぎ。最奥の廃村 笹ノ越路は素通りするつもりでしたが,道の脇にバス停留跡や石碑を見つけると,そのたびバイクを止めて,写真を撮ったり探索したりしました。
峠を2つ越えて,大芦川沿いに鹿沼市最奥の古峰ヶ原に向かうと,道をまたいで黒くて大きな鳥居が立っていました。このとき知った古峰ヶ原の古峰神社は,日本武尊(ヤマトタケルノミコト)を奉る歴史のある神社で,境内では綺麗な紅葉を見ることができました。
しかし,古峰ヶ原から横根山に向かう予定の道は,県道,林道ともに通行止。県道のほうは,まだ開通していない様子でした。

# 3-10
県道が通じていたら10km弱の古峰ヶ原と横根山の距離は,急きょ決めた日光市清滝,足尾町足尾経由の迂回路だと58km。古峰ヶ原出発は2時少し過ぎ。のんびり山を走るイメージは崩れ,明るいうちに横根山を探索することができるか,時間との闘いとなりました。
日光,足尾と,一般的な観光地はすべて素通りして,標高1100mの粕尾峠からさらに少し上った横根山集落跡に到着したのは午後3時半。分校跡への入口は墓地(関東霊園)の入口のすぐ対面にあり,簡単に見つかりましたが,細い川を渡った分校があったと思われる場所には工事中の看板があり,盛り土がなされていました。周囲の草はササばかりで,気候の厳しさが想像されます。

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# 3-11
足尾小学校横根山分校はへき地等級2級,児童数20名(S.34),閉校年は昭和49年で,児童数は2名。関東地方では唯一の戦後の開拓集落の「廃校廃村」です。道と藪の境目に鉄棒のようなものがあったのですが,分校跡の雰囲気は感じられませんでした。しかし,後に見つけた「ミケの足尾銅山研究」Webには,良い雰囲気の同じ鉄棒の写真が掲載されていたので,分校跡の鉄棒と考えてよさそうです。
横根山開拓集落跡では,ヤマハを中核企業とするリゾート開発がなされましたが,廃墟のロッヂがあったり,使われているかどうかわからないバンガローがあったりで,うまく行かなかった様子です。1時間少しの探索の間,横根山でも誰かと会うことはありませんでした。

# 3-12
西の空に陽が落ちるのを見届けて,横根山を後にしたのは夕方4時45分。粕尾峠を粟野町側に下って,最初の集落山ノ神に着いたときには,あたりは真っ暗でした。粕尾川沿いの県道ではうどん屋で一服したかったのですが,夜はkeiko(妻)と一緒に食事をする約束をしています。
栃木IC手前のGSではホットココアで飲んで,冷えた体を温めながら頭のモードを「高速を安全に走る」に切り替え。平日の上りの東北道の流れはよく,南浦和にはオフィスからの帰宅時間帯の午後7時半には帰り着いていました。
前日に決定という気軽さで出かけた前日光・日帰りツーリングですが,迂回路のこともあり,走行距離は325kmにもなっていました。

(追記1) 栃木県足尾町は,平成18年3月,五市町村の合併により日光市足尾町となりました。

(追記2) 日本開拓振興協会で閲覧した冊子「開拓三十年(栃木県)」によると,横根山に入植したのは新潟県出身 満州引揚者の団体で,一部は分かれて秋田県由利本荘市(旧由利町)南由利原に再入植したとのこと。南由利原の開拓集落は今も存続しています。

(追記3) 梶又小学校跡の校舎は,平成22年8月頃解体されました。

(追記4) この旅で偶然立ち寄った古峰神社が,会津地方で広く火守の神様として祀られていて,会津の各所に「古峰神社」の石碑,石柱が建っていることを知ったのは,平成26年になってからのことです。



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