斑尾高原・4つの廃校廃村の現在
斑尾高原・4つの廃校廃村の現在
長野県飯山市堂平,沓津,堀越,北峠
廃村 沓津(くっつ)に建つ離村記念碑です(昭和59年建立)。
2005/8/8〜9 飯山市堂平,沓津,堀越,北峠
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長野県飯山市は古くから信州と日本海を結ぶ交通の要所として栄えた歴史のある市で,人口は25,902人(H.17)。観光でも寺の町(雪国の小京都),斑尾高原リゾート,戸狩温泉など,著名なスポットがあります。
しかし,全国でも有数の豪雪地のため,山間部における冬は厳しく,高度成長期後期(昭和46年〜48年)を中心にいくつかの廃村が生じました。「飯山市誌」ではこれを「解村」と表しており, 屋敷,柳久保,沓津,田草,北峠,堀越の解村年月が記されていました。
今回目指した「廃村」は,このうち分校跡がある沓津,北峠,堀越と,同じく分校跡がある堂平(高度過疎集落,後に冬季無人集落化)です。
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これだけ「学校跡を有する廃村」が集中している地域は全国的にもあまりなく,5月末に見つけて以来,興味深く思っていました。
6月に長野市在住の吉川泰さんが作成した「長野県の廃校リスト」を拝見する機会があり,そこには458校の廃校がリストアップされていました。飯山市内は22校あり,堀越,沓津,堂平には平成7年現在 木造校舎が残っているとのこと。
旅2日目(8月7日(日)),斑尾高原のペンション「タマの家」着は午後2時半。この日の午後は標高約1000mのリゾートで,のんびり避暑のひとときを過ごしました。宿のご主人(野村さん)はモトクロスに興味をお持ちで,ツーリングのお客さんも多いとのことです。
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旅3日目(8月8日(月)),天気はおおむね晴。keikoと2台のバイクで宿を出発したのは午前9時。最初に目指したのは斑尾高原からいちばん近い堂平(Doudaira)です。分道という小さな集落で主要道を外れると,道はどんどん田舎っぽくなっていきます。
まず見出されるのは,赤い屋根の一軒家 堂平分校跡です。飯山小学校堂平分校は,へき地等級2級,児童数42名(S.34)。昭和50年に閉校してからも冬季分校として昭和57年まで使われました。現在は「杜のママ」という菓子工房兼個人宅として使われています。分校跡から500mほど坂を下った堂平の集落では,銀色に塗られた火の見やぐらと,その横の倒壊した家屋の青い屋根が目を引きました。
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堂平は標高640mの緩斜面にあり,その規模は4戸・10名(H.17)。近くの家のおばあさんに会えたので,「こんにちは」とご挨拶をしたのですが,あまり話は弾みませんでした。思えば廃村探索で出会って話をするといえば,年配の男性が多数で,女性は少数です。keikoにそのことを話すと「そりゃ見知らぬ人,それも背の高い男性に声をかけられたら女性はこわい」との声。「なるほど」と納得する私でした。
次に訪ねたのは堂平から2kmほどの距離にある廃村 沓津(Kuttsu)です。堂平・沓津・飯山市街の三差路には「入山禁止 沓津愛郷保存会」「熊出没注意」という看板がありました。沓津への道には舗装道ながら急斜度のカーブがあり,keikoは苦労しています。
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沓津は標高660mの緩斜面にあり,「飯山市誌」によると,解村は昭和47年3月とあり,分校の閉校と同時期です。耕作された田んぼがあり,萱葺き屋根の家屋が残り,アジサイやハナガサギクが咲く集落跡は,のんびり過ごすにはちょうど良い雰囲気があります。
「公衆電話 電報」の看板が印象的な萱葺き屋根の家屋の箇所から脇道に入ると,数軒の倒壊した建物が目につきました。しばらく歩くと,二階建ての分校跡の建物が見つかりました。秋津小学校沓津分校は,へき地等級2級,児童数17名(S.34)。裏から回り込んで入口に着くと,入口の横には水を飲んで休んでいる地域の方(50代の男性)が居て,意外なところでバッタリ出会ったということで,ドキッとしました。
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ご挨拶をすると,この方(佐藤さん)は沓津に住まえていた方で,草刈りに来られていたとのこと。佐藤さんには雪下ろしのこと,春と秋の祭りのこと,学校跡の手入れのことなど,いろいろお話をしていただきました。「公衆電話 電報」の看板について尋ねると,看板があるのは佐藤さんの家で,分校の玄関脇にあった公衆電話を,閉校後,佐藤さんの家の土間に移していたことからあるものとのお返事でした。
旅人の目には手入れされているように見える沓津ですが,佐藤さんが「年々建物は傷んで,崩れる家も増えて,自然に帰っていくようで寂しい」と言われていました。佐藤さんの家も,この冬の雪で屋根が傷んでしまったとのこと。
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分校跡をクルマの入口のほうから後にすると,道の反対側には離村記念碑があり,裏面には建立時期(昭和59年9月)と移転者の名前(25名)が刻まれていました。また,旧分校跡とも記されており,今の分校(昭和30年11月落成)の完成前は,碑の場所が分校だったようです。
離村記念碑の少し上手には錆びついた火の見やぐら,さらに上手には木製の鳥居がある神社がありました。沓津は見所の多い廃村です。
沓津からは三差路まで来た道を戻り,飯山市街へ向かうとすると,清川沿いの道はダートになりました。オン車のkeikoを気にしながらも,オフ車の私はご機嫌です。途中の廃村 屋敷(Yashiki,昭和46年12月解村)は,道沿いを見る限り田んぼがあるだけでした。
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飯山市街は,雪よけにひさしを長くした「がんぎ造り」や融雪用の地下水による道路の赤さびが印象的。JR飯山駅前の観光案内所を訪ねた後,そばを食べて,寺町など一般的な観光地にも足を運びました。
午後の目標は,廃村 堀越(Horikoshi)と立石分校跡です。飯山市街を午後1時40分に出発して,秋津小学校から山に向かって進むと,田草川沿いの道はほどなくダートになり,「ちょっと一服」にちょうど良いタイミングで着いたのが廃村 田草(Tagusa)です。「飯山市誌」には田草の解村は昭和47年12月とありますが,春から秋にかけては今も1〜2戸の暮らしがある様子です。
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田草から比較的フラットなダートを4kmほど走り,ようやく到着した堀越は,標高700mの高原面にあり,飯山市街を見下ろすことができます。数戸の家屋が見当たりましたが,神社を回っても「堀越」の名称は見当たらず,「本当にここは堀越?」と少々頼りなげでした。
「飯山市誌」には堀越の解村は昭和55年12月(2戸・9名)とあり,立石分校の閉校(昭和55年3月)とほぼ同時期です。
地形図では,立石分校は堀越の三差路から田草の方向に500mほど離れた所に分岐点があり,そこから逆S状の道を300mほど入った所に記されています。しかし,分岐点は見当たらず,keikoには堀越で待ってもらい,単独で藪ごきをすることになりました。
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藪の道は,はっきりトレースできる部分もあれば,背丈ほどの高さがある部分もあり,かき分けているとどんどん汗が出てきます。電線を頼りに道なき道を進んでいくと,行く手に空色の屋根が見えました。「着いたかな?」と思って近づくと,分校跡という雰囲気ではありません。人気があるのでよく見ると,それはkeikoでした。どうやら別の道をたどって堀越に戻ってしまったようです。
地域の方も見当たらず,単独行動を続けるのも良くないので,ひとまず撤収です。ダートをさらに進むと,幸い1.5kmほど(豊田スキー場近く)で新しい主要道と合流できたので,大池近くの「まだらおの湯」に入って一服です。
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ふたりで一度宿に戻って,地図をしっかり確認した後,単独でリベンジに出かけたのは夕方4時55分。堀越,沓津,堂平を時計と逆回りに回る一周約30kmのコースです。堀越の三差路からメーターで確認して500mの地点には,草むらへ電線が入っていく箇所があり「ここしかない!」と藪をかき分けてしばらく進むと,うっすらとトレースできる道がありました。こうなればしめたものです。
注意深く逆Sの字に道をたどると,立石分校跡の二階建ての木造校舎が見出されました。秋津小学校立石分校は,へき地等級2級,児童数21名(S.34)。昭和32年8月落成の校舎は,閉校後の昭和58年には陶芸家の方が作業場として使われたとのこと。
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藪の中のため,見つかってからも近づく道がはっきりせず,足元に水槽があったりでおっかなびっくり。苦労の末接近し,中の様子をうかがうと,一階には職員室,宿直室,講堂,二階には教室が2つありました。小さな分校が二階建てで造られるのは,雪国の特色のようです。
手入れがなされない状態で,豪雪地に立ち続けている木造校舎の姿は,見つけるまでの大変さもあり,とても感動的でした。
立石分校跡を後にしてからは,やや急ぎ足で田草川沿いのダートを下りて,清川沿いダートを上って,袋小路の沓津にも,もう一度立ち寄りました。錆びついた火の見やぐらを見上げると,午前中の沓津がずいぶん昔のことのように思えました。
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「タマの家」に戻ったのは6時50分頃。食事をとって落ち着くと,この日行かなかったもうひとつの廃村 北峠(Kitatouge)のことが気になってきました。斑尾高原から北峠までは,山ルート(湧井・関谷経由)なら約15km,市街へ一度下りるルートなら約23kmですが,どちらの道をたどっても北峠周辺の道の事情は悪そうです。野村さんに確認したところ「おそらく山ルートで大丈夫だろう」とのことでした。
旅4日目(8月9日(火))の天気も晴。早朝5時に起床して,北峠を目指して5時半に単独で宿を出発。途中,希望湖ぐらいまではリゾートの匂いがありました。ちなみに,斑尾高原リゾートは高度成長期に造成され,最初のホテル・スキー場のオープンは昭和47年12月とのことです。
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野村さんに教えていただいた関谷から分岐した林道は道幅の細いダートで,単独行は正解でした。2.5kmほどでソブの池に出て,ここで市街ルートと合流。道は四差路になっていましたが,「全面通行止」の看板があるダートに「この方向」という雰囲気を感じました。
ダートを注意深く進むと1.5kmほどで盆地状の広がりが見つかり,北峠に到着しました。「飯山市誌」によると北峠の解村は昭和48年10月(6戸・21名)で,分校の閉校と同時期です。
バイクを降りてあたりを見渡すと,作業小屋代わりの三角屋根に覆われた軽自動車と傾いた木製の電柱ぐらいしか見当たりませんでした。
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改めて地図を確認したところ,分校跡は小高くなった場所にあり,草深い山道をたどると,校名の入った石柱と「海抜640米」と刻まれた石柱が並んで建っていました。草むした分校跡を歩くと,奉職者の名前(30名)が刻まれた石碑と,崩壊した校舎跡が見つかりました。
外様小学校北峠分校は,へき地等級2級,児童数19名(S.34),最後の校舎の落成は昭和31年11月。校舎跡のがれきの中には,立石分校で見たのと同じような,階段の手すりと思われる固まりが含まれていました。北峠分校も,二階建ての木造校舎だった様子です。
帰り道は市街ルートを使ったため,ようやく飯山市街から斑尾高原に向かう主要道を走ることになりました。
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「タマの家」に帰ったのは7時50分頃。2泊すれば宿にもしっかりなじみができます。3泊4日の旅の最終日は,斑尾高原から地獄谷,渋峠経由,南浦和までの約250km。地獄谷では温泉に入る野猿を観察し,標高2172mの渋峠では涼しさを堪能しました。
菓子工房・個人宅として今も使われている堂平分校,廃村になりながらも大切に手入れされ続けている沓津分校,廃村となり放置されながらもしっかり建ち続けている立石分校,何もなくなった集落跡に石碑やがれきだけが痕跡を残す北峠分校… 飯山の4つの廃校廃村の分校跡は,四者四様の姿となって,「かつてそこに村があった」ことを伝え続けていました。
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(追記1) 堂平は平成18年冬の豪雪で孤立したことを契機に冬季無住集落となり,平成19年8月には閉村式が行われました。
(追記2) 屋敷の集落跡には,平成19年5月,JR飯山駅から沓津まで歩いて往復したときに立ち寄りました。川沿いの道より少し高い所にある作業小屋には地域の方がいて,「清川の谷にはダムができる計画があったが,田中康夫知事の頃,取り止めになった」とのお話を伺いました。
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