中信・サクラの頃の廃校廃村めぐり
中信・サクラの頃の廃校廃村めぐり
長野県松本市東北山,筑北村伊切
高度過疎集落 伊切(いぎれ)に建つ分校跡の記念碑です。
2007/4/21 松本市(旧四賀村)東北山,筑北村(旧本城村)伊切
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# 16-1
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平成19年3月現在,長野県で見出した「廃校廃村」の数は22か所(集落跡18か所,高度過疎集落4か所)で,私が足を運んだ「廃校廃村」の数は9か所。あちこち行ったつもりでも,まだ未訪は13か所もあります。
「サクラが咲く沓津分校跡(飯山市)を見てみたい」という思いから4月下旬に企画した信州の廃村廃村めぐりでは,1泊すればあわせて行ける松本市東北山(Higashi-kitayama),筑北村伊切(Igire)を選びました。メンバーは,平成12年夏,長崎県端島(軍艦島)の探索時に知り合った長野県在住のJNR-TAMAさんと,同じく軍艦島つながりのはがねさんの3名です。あわせて,木造校舎が残る生坂村入山,飯山市堀越(立石分校跡)も再訪することになりました。
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# 16-2
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中信・廃校廃村めぐり,集合は4月21日(土),新幹線上田駅朝8時40分。天気は晴。TAMAさんのクルマで,まず東北山を目指してR.142を走りました。青木村に入ると田舎の風情になり,道の駅に入って昼食の買い出しです。青木峠は予想外の険しさにびっくり。旧四賀村の中心 会田では,移転して使われなくなった中学校の木造校舎がそのまま残されていました。サクラが綺麗に咲いていることもあり,とてもよい雰囲気です。
東北山への道のりは会田から約3kmですが,多くの枝道があり,すんなりとは走れません。農作業の方(年配の女性)に道を尋ねながら東北山に到着したのは10時30分。現在,東北山に残る家は1戸のみ。手元の地形図に記された文マークは,この家のすぐそばなのですが,それらしき雰囲気は見出せません。
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# 16-3
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1戸残る家のご主人がまき割りをされていたので,ご挨拶をして分校跡について尋ねたところ,「会田寄りの車道から少し入った山道沿いにある」とのこと。お礼を言ってクルマを戻したところ,車道と山道の分岐に「東北山分教場跡入口」という標柱が立っていました。親切な標柱ですが,ご主人に尋ねなかったら見つけることはできなかったことでしょう。
五常小学校北山分校は,へき地等級1級,児童数10名(S.34),昭和45年閉校,最終年度(S.44)の児童数は4名。小さな敷地には,昭和55年と記された古い標柱が立っており,奥のほうには校舎の土台が残されていました。
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# 16-4
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TAMAさんから「1戸でも残っていたら廃村ではないのでは…」という質問があり,それに対して私は「いや,それをいうと無人になるのを待つことになるので…」,「廃れた村という風に解釈してもらえると・・・」と,切れのよい返事をすることはできませんでした。
しかし,「現地に行って地元の方と話をするとき,『廃村を訪ねてきたのですが,どこにあるでしょうか』とは言えない」,「『学校跡を訪ねてきたのですが,どこにあるでしょうか』と声をかけると話しやすい」という私の声には,「なるほど!」という合意を得ることができました。
このように「廃村」という言葉には否応なしに生じる曖昧さがあるのですが,曖昧さから生じるイメージの広がりを大切にしようと思うところです。
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# 16-5
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東北山から伊切に向かう途中には,JR篠ノ井線の旧線跡があり,架線をささえる柱が列になって残っていました。立ち止まって歩いた線路跡は,草も茂っておらず快適です。鉄道の廃線はとてもわかりやすい存在であり,三人三様で楽しめた感じがします。
狭い村道を走り,伊切に着いたのは11時50分。三差路にある古い土蔵のそばにクルマを停め,あたりを見渡しましたが人気はありませんでした。往時の伊切は山の中に数戸の小集落が点在する集落で,分校は梨ノ木堂という小集落にありました。現在の住宅地図には車道近くに3戸,山の中に2戸の家が記されています。梨ノ木堂へ向かう道路は,三差路のところからダートになっていました。
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# 16-6
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ダートを300mほど進むと,道は二又になっています。地形図にある文マークを目指すには,二又の間にある急な山道を1km弱歩くのがよさそうです。
クルマを停めて「こんな道行くの」というはがねさんの声を受けながら,じわじわと歩いて10分ほど。山道はダートの車道と合流して山の上に出て,そこには「伊切支校跡」という標柱と,立派な石碑がありました。碑には「平成14年 伊切ふるさと友の会建立」と記されていました。
「行ってみて何があるかわかった」ので,私は満足感を得ましたが,東北山,伊切ともに建物は残っていなかったため,TAMAさん,はがねさんには物足りなかったかもしれません。普段の都会の生活では縁がない山道歩き,楽しんでもらえたでしょうか。
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# 16-7
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本城小学校伊切分校は,へき地等級1級,児童数14名(S.34),昭和38年より休校の後,昭和40年閉校。最終年度(S.37)の児童数は9名。見晴らしのよい敷地には,少しだけ花を着けたサクラと,水道の跡が残されていました。
記念碑の後方には,青い屋根のプレハブの建物があり,「工事関係の作業小屋かな」と思い近づくと,地域の方(ご夫婦)が居たのでご挨拶。話をすると,ご夫婦は伊切出身で松本市在住。この場所では碑ができた頃に建物を建てて,通いで農作業をされているとのこと。分校について尋ねてみると,しっかりした校舎だったが,昭和42年に火事のため焼けてしまったとのこと。サクラは分校があった頃からのものとのことでした。
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# 16-8
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クルマに戻って昼食をとり,対象は再訪の廃村となりました。今回は3人組ということで,「紹介する」ことが楽しみの要素となります。
入山を再訪していちばん印象に残ったのは,山道の途中,沢を丸木橋で渡るところでTAMAさんが見つけた石炭の原石です。入山に小規模な炭鉱(野口炭鉱)があったことは,地形図や「生坂村誌」で確認していましたが,原石を見つけることで,それを実感することができました。
峠の上の入山分校跡の廃校舎(明治44年建設)は,一部の漆喰の壁を崩しながらも,昨春と同じ雰囲気を保っていました。昭和40年(最終年度)の入山分校の児童数は7名でした。
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# 16-9
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この日の宿は,JR飯山駅前の「すざかや旅館」。昔ながらの宿には,チェーン系のホテル・旅館はない,落ち着いた雰囲気があります。
夜の食事は,宿のおかみさんお勧めの焼肉店「さとみ」。お店の大将によると,飯山・斑尾高原は関西からの旅人が多く,大将も大阪から飯山へ移り住んで数十年とのこと。関西人の私が飯山になじみやすいのは,そんな伏線があるからかもしれません。
工事が進行中の北陸新幹線 飯山駅の完成予定は平成25年頃。「便利になってよいですね」と大将に声をかけると,「いや,落ち着いているぐらいのほうがいいですよ」との返事でした。この夜の焼肉とビールはすこぶる旨かったです。
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# 16-10
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翌22日(日)の起床は朝6時半頃。午前中は曇り時々薄晴れ,午後は雨。「探索は午前中に済ませましょう」と,飯山駅前を出発したのは朝9時10分。
立石分校跡の廃校舎(昭和32年建設)に向かう逆S字状の道を歩くのはこれで4度目。草が刈られていて,これまででいちばんたやすくたどり着きました。
二階のがらんとした教室跡にはがねさんが座り込んでいるのを見て,ふと,「下の階(体育館跡)から机と椅子を運んでこよう」と思いつきました。往時の机と椅子を加えることにより,より学校跡の雰囲気が醸し出せたように思います。木造校舎好きのTAMAさんが写真を撮る様子も熱が入っていました。閉校直前の昭和51年から54年(最終年度)までの立石分校の児童数はわずか2名,教卓を探し出せば完璧かもしれません。
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# 16-11
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続いて再訪した沓津は,はがねさんは雪の時に続いて2度目,私は実に6度目。待望の分校跡のサクラのつぼみはまだ固く,それもわずかな数です。
沓津分校の廃校舎(昭和30年建設)が,廃村になった今も地域の方の集会所として使われているのは,嬉しく思うことしきりです。昭和46年(最終年度)の沓津分校の児童数は6名でした。はがねさんは神社や祠が好きらしく,前回行けなかった神社まで足を運べて満足の様子でした。
「かじか亭」(富倉小学校跡)でそばを食べて,雨の午後は少し離れた新潟県上越市(旧板倉町)の「地すべり資料館」を目指してドライブしました。途中,車窓に人気のないトタンをかけた萱葺き屋根の家が見えるたび,「ここにも廃村があるのでは」と話に上がっていました。
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(注) 生坂村入山分校跡,飯山市立石分校跡の写真は,JNR-TAMAさんにお借りしました。
(追記1) その後,旧臼田町広川原,小谷村真木,栄村五宝木を加えて,長野県で見出した「廃村廃村」の数は25か所(廃村20か所,高度過疎集落5か所)になりました。
(追記2) 飯山市沓津分校跡には,約2週間後(5月4日(金)),単独でサクラを目指して再訪しました。華やかさはありませんでしたが,サクラはしっかり咲いていました。この時は日帰りで飯山駅から沓津まで,付近の山道を含めて約20km歩きました。
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