「廃村と過疎の風景」まとめ
「廃村と過疎の風景」まとめ
長崎県野崎島の神島神社の海からの参道入口の鳥居です。
「廃村にも命が宿っている」。1999年10月から2000年10月まで,1年ほどの間に連続して全国あちこちの廃村を巡っているうちに感じるようになりました。
もともとは風景の美しさから入った廃村探索ですが,集落の歴史を調べたり,元住民の方とお話をしたり,繰り返し足を運んだりしているうちに,深みができてきたようです。
ここでいう命とは,廃村そのものや往時から残っている風景や物が持つ命です。私はダム湖に沈んだ廃村にはあまり魅力を感じないのですが,それは往時の風景や物がほとんど残っていないから,つまり命がダム湖に飲み込まれているからのようです。
2000年最後(11月)の廃村への旅(東京と長崎の旅)では,そんな「廃村に宿る命」を感じる機会が続きました。これを振り返ることで,まとめにしたいと思います。
その1 東京都奥多摩町峰
(2000/11/11)
道の裏手から見た「タイムマシンの廃屋」です。
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東京は奥多摩の廃村 峰には「廃屋は2軒しかない」という記事を,「廃墟explorer」(管理者 栗原さん),「温故知新」(管理者 ぴぴさん)という二つのホームページで立て続けに見かけました。それも見つからないのは,いちばん良い雰囲気の「タイムマシンの廃屋」とのこと。さらにぴぴさんは,再度確かめに行かれても見つからなかったとのこと。
崩壊しそうな雰囲気はなかったので,取り壊されたのかと思ったのですが,気になって仕方ありません。
残址を見に行く心積もりで,10年来の通信仲間の米本さんを誘って,10か月ぶりに峰を再訪することになりました。青梅線の電車は,ハイカーの方で満員でしたが,鳩ノ巣駅からの山道は静けさに包まれていました。
二度目の峰では,「野崎島でも見たなあ」と酒のかめに目が行くようになるなど,視点の変化を感じました。
問題の「タイムマシンの廃屋」は,保護色にはなっているものの,場所を知っている私としては簡単に見つけることができました。米本さんによると,「何だ,あるじゃん!」といって,嬉しそうに駆け出したそうです。
「廃村に宿る命」を,肌で感じたのはこのときが初めてかもしれません。そしてそれは,いつ大きく変化するかわからない,デリケートな存在なのです。
「タイムマシンの廃屋」の裏手でも,崩れた廃屋に埋もれかけた風呂桶などを新たに見出すことができました。
その2 長崎県高島町端島 (2000/11/24〜25)
アパートの10階(屋上)にある幼稚園跡のすべり台です。
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3か月ぶり,二度目の端島には,「軍艦チーム」という20人ほどの集団として訪れました。
まとめ役のdoutokuさんは,小学校から高校までを端島で過ごされた元住民の方で,端島に興味のある方には,その歴史や現在の姿を知ってもらおうと,「浮浪雲」というホームページを開設されていて,集団はホームページの縁で結成されたものです。
廃墟となった故郷について元住民の方は,「朽ちて行く故郷にじっくり付き合おう」という方と,「壊れてしまった故郷は見たくない」という方に綺麗に二分されるようです。
公式には上陸できない(立入禁止)というのは,元住民の方も,釣りの方も,写真家の方も,旅人も同じです。
非公式にしか上陸できないのは,事故があったとき,管理者である三菱マテリアルの管理責任が問われるからのようです。もしも大きな事故が起こったら,管理は強化され,高い鉄条網で覆われたり,危険度の高い建物から,順次取壊しが始まるのかもしれません。
事故がなくても,外海の厳しい気候の中なので,台風や高波などの際,建物が倒壊する可能性は十分にあります。鉄骨造の映画館跡は,堤防決壊時に波の力で崩壊したそうです。
旧別子のように,綺麗に整備された鉱山跡も悪くはないのですが,そこに宿る命の力強さは比べ物になりません。県が台風で決壊した堤防を公費で修理しているのも,「そのまま放置し,崩れるにまかすわけにはいかない」という判断からなのでしょう。
炭鉱の閉山と同時の無人化から26年,「廃都市」は静かに生き続けているように思えます。
私はアパート(65号棟)の10階にある幼稚園にテントを構え,ひとりの夜を過ごしたのですが,物が崩れるような音はまったく聞こえず,ただ風の音と,遠くを走る汽船のボイラーの小さな音だけが快く流れていました。
また,夜明けとともに少しずつ明るくなっていく窓の外の風景は,見飽きることのない素晴らしいものでした。
端島に「どうしても行きたい」という方は,是非行かれることをお勧めします。ただし,絶対に事故は起こさないように。多くの方がこのまま静かに朽ちて行く端島の姿を見守りたいと思っているのです。
その3 長崎県外海町池島 (2000/11/25〜26)
池島炭鉱の入口右側にある炭鉱夫と子供の像です。
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長崎県外海(Sotome)町,西彼杵半島沖の池島(Ikeshima)では,現在も炭鉱が操業されています。国内で操業中の炭鉱は池島と釧路の2か所だけで,その採算性からいつ閉山になっても不思議ではない状態にあります。
池島炭鉱は1959年(昭和34年)操業開始の新しいもので,その施設は世界的にも最新のものとのこと。池島の人口は,昭和40年代には10000人を超していたのが,今は約3500人。それでも狭い島(面積は0.92ku)のため,島としての人口密度(3851人/ku)は日本一です。池島郷という集落は,港の近くのアパート群,台地の上のアパート群,その間にある古くからの集落の3つに分かれているのですが,現在,漁業は行われておらず,住民は全員炭鉱関係の仕事をしているといっても過言ではありません。
私は端島が賑やかだった頃の雰囲気,炭鉱の生活の匂いを求めて,ひとり初めて池島を訪れました。
長崎市街からは,順調に行けば2時間くらいの距離で,船の本数もそこそこあるのですが,観光の方はほとんどいないとのこと。
スーパーは,三井松島炭鉱という会社の直営で,3か所ある共同浴場も会社の福利厚生施設です。夜になって,島で唯一と思われる赤ちょうちんの焼鳥屋さんに飲みに行くと,炭鉱勤務のご家族と出会いました。
「炭鉱は人生の縮図」と言ったお父さんは,島に来て3か月目。必要な人員数の変化が激しい仕事(特に下請け)のため,短い間に多くの人がやってきて,また去って行く・・・ その繰返しが炭鉱の生活のようです。
ふと「炭鉱は集落の命の縮図」とも言えるような気がしました。操業開始とともに,急に賑やかな街ができて,短い間に盛衰があって,そして閉山を迎え,端島では一気に「廃都市」となってしまった・・・
今はまだ賑やかな池島ですが,炭鉱が閉山されたとすれば,ほとんどの人口が流出するのではないかと思えます。
夜の池島の窓が閉ざされたアパートには,端島の姿が重なりましたが,宿の近くにはカラオケスナックが数軒あって,夜遅くまで賑わっていました。また,三交代の勤務体制のため,午前4時,午前5時,午前6時と何度もサイレンが響き渡りました。そんな快くはないはずの音も,池島の命の鼓動と思うと,味わい深く思えました。
その4 長崎県小値賀町野崎島 (2000/11/26〜27)
二半岳の山頂近くから見下ろした野首集落跡です。
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野生シカ,天主堂,学校跡の学塾村,綺麗な海,原生林,そして廃村と,見どころいっぱいの野崎島への再訪は,8月に端島で知り合ったゆかりさんと一緒に行きました。野崎集落に1世帯で暮らされている岩坪さんに「島内で宿泊できますか」と連絡を取ったところ,集落の公民館を紹介していただきました。町役場の方への連絡により,天主堂のカギもお借りできました。
シーズンオフということで,小値賀島からの午後の定期船で野崎に降りたのは私達を含めて3人。残りの一人の方は,野生シカの調査で高台にある観察用の建物に泊まられているようです。あと,ダムの工事の方が数人居たり,漁関係の船が釣りをしていたりで,野崎の港には定期船以外にも小値賀島や佐世保などから割合頻繁に船が行き来している様子です。
野崎集落で夜を迎えたのは初めてだったのですが,あちこちに街灯が灯り,午後6時にはスピーカーから音楽が流れるなど,もっと人が居そうな感じがします。夜にも港には何艘か漁関係らしい船が出入りして,ちょっとおっかなかったり・・・
翌朝,単独で向かった神島神社は,上五島で最も権威があるというだけあって,とても険しい原生林の真っ只中にありました。途中道に迷って,海からの入口の鳥居まで行ってしまったりして,往復4時間近くかかり,神主さん(岩坪さん)とゆっくりお話する時間はなくなってしまいました。その代わり飼いイヌのチョコちゃんが,学塾村や砂浜にまで付き合ってくれました。
岩坪さんやチョコちゃんのいない野崎島の姿は想像ができないのですが,本当に近々引っ越されてしまうのでしょうか。
野首の集落跡では,8月に天主堂と廃村をあわせた写真を撮るため,往時の道に拾い出して並べたミシン台と水がめが,そのままの状態で残っていました。島を離れてから,「ミシン台が倒れてかめが破損してしまうのでは・・・」と気になっていたのですが,水がめの命は完全な形で残っていました。もう一度写真を撮ってから,水がめは安全な場所に戻しておきました。
今回も「豊かな海と野生シカの島」や「火宅の人」に登場する,西海岸にある野首の港近くの「潮風にさらされた十字架」には,行く時間を取れませんでした。かなりの大きさ(端島の110倍強,池島の7倍強)があるのに歩くしか交通手段がなく,地勢も険しく,かつ見所があちこちに散らばっている野崎島は,そんな不便さも昔ながらで,大きな魅力に違いありません。
国土庁によると,1960年(昭和35年)から1998年(平成10年)までに,全国の過疎地域(1230市町村,全国の市町村のおよそ四割)で消滅した集落は1712に上り,過疎地域以外を含めるとその数は2000を超えると思われます。
「日本各地に2000もの廃村がある」というのは,多くの方にはピンとこない話ではないかと思います。しかし,現実として,全国各地にはダムの建設をはじめとして,教育の問題,後継者の問題,仕事の問題,医療の問題など,さまざまな理由で廃村となった集落跡が点々としています。また,お年寄りだけしかいない集落や,冬季には無人となる集落も数多く存在し,そのうちのいくつかは,今後廃村となり,無人の地域は増えていくのでしょう。
「集落に宿る命」は,都会の街並みなどでも見かけることがあります。私の場合,その多くは有名な観光地ではなく,さりげない古い街並みや昔ながらのお店に感じます。
街並みの命は芽生え,そして失われることの繰り返しなのに対して,廃村の命はただ失われていくばかりのものです。
「なぜ廃村に心惹かれるか」,いろいろな要素がありますが,「命の侘しさや寂しさが感じられる」ことがいちばん大きいようです。
個人の命は,長い歴史の中ではほんの一瞬のものです。廃村というその歴史を閉ざそうとしている存在の中に身を置くと,一瞬という侘しさ,一瞬という尊さが浮かび上がってくるのです。
もう一つ,たとえば,炭焼きが職業として成り立っていた頃の山は,綺麗に手入れされていたようです。人がいなくなることで,自然も荒廃していきます。無人の地域が増えることには漠然とした不安を感じます。この国の将来を考えるとき,これも意識しておくべきことです。
街に生まれて街に育った私にとって,過疎の地には一種の憧れがあります。それは田舎に生まれた方が街に憧れるのと似た気持ちなのかもしれません。そしてそこで得たものは,街の暮らしを続けて行く上で,とても貴重なものなのです。
街の住民にとって廃村や過疎の地は,親戚がいるなどきっかけがないと,なかなか足を運ぶことができない場所です。そんな場所に,それも日本中のあちこちの地で,その地の方と出会うことができました。
まとめにあたって,「村の記憶」の著者グループの代表者である富山県の橋本廣さんを訪ね,資料の捜し方,まとめ方などのお話を伺いました。参考にさせていただき,今後の廃村紀行に新たな切り口を見出して行こうと思います。
また,ちょうどまとめの内容を見直している頃,「軍艦チーム」でご一緒した西日本新聞(福岡県)の塚崎謙太郎さんから特集記事(端島関連)の取材のメールをいただき,内容を掘り下げることにおいてよい刺激となりました。
「廃村と過疎の風景」は,多くの人との出会いによって形にすることができました。どうもありがとうございます。
いちばんの原動力となった「秋田・消えた村の記録」の著者である秋田県の佐藤晃之輔さんには,深く感謝いたします。
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