孤島の廃都市をめざして
孤島の廃都市をめざして
長崎県高島町端島
高島の方向から見た端島です。「軍艦島」の俗称は,外見が軍艦土佐に似ているからだそうです。
2000/8/15 高島町端島
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# 11-1
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端島(Hashima)は,長崎市にほど近い野母半島の沖合いに浮かぶ小さな無人島(面積0.06ku)ですが,明治から昭和40年代までは財閥三菱が所有する炭鉱(三菱石炭鉱業端島坑)として栄えました。狭い島には高層の鉄筋コンクリート造によるアパートが林立し,「SHIMADAS」によると1959年の人口は5,259人,人口密度は83,600人/kuで,東京よりもはるかにぎっしりと人が詰まった状態だったようです。
そんな端島も石炭の枯渇や高度成長による採算の問題で1974年に炭鉱の閉山とともに無人島と化しました。集落跡の規模を人口で考えると,同じく産炭地の北海道美唄市東美唄(最盛期(1960年)の人口19,416人),夕張市鹿島(同18,659人)などと並んで,国内最大級です。
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# 11-2
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端島の存在は学生の頃から知っており,ずっと深い興味はあったのですが「廃村」という雰囲気はなく,取り上げるかどうか迷いました。
しかし100年近くもひとつの集落(都市)として栄え,現在残っている遺構も国内最大級の規模ということで,「廃都市」という呼称を付けて,野崎島,葛島に続いて足を運び,廃村と同様の視点で探索することとなりました。
端島への上陸は公には禁止されており,道程を取り上げることも迷ったのですが,できるだけリアルな感じにまとめたいと思います。
島へ上陸したら,身の安全の確保は自己責任です。注目度が高い場所なので,強調しておこうと思います。
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# 11-3
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「秋田・消えた村の記録」で紹介した「とほ」の民宿は,大部分が北海道の宿なのですが,長崎にも一軒頑張っている宿があります。2000年版の「とほ」を見て驚いたのは,この宿の案内の「さあ軍艦島に行こう!」というコピーでした。「とほ」と係わりがあり,バイク旅行(ツーリング)と「とほ」は相性がよいということで,「端島へ行くための宿はここ!」と,早くから決めていました。
宿は,長崎市街からR.499をバイクで30分ほど行った三和町の住宅街の一角にあります。奈留島からのフェリーで着いた長崎市内では,いきなりバイクの整備が必要となり,宿への到着は午後8時半頃になってしまったのですが,宿主さんは快く迎えてくれました。
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# 11-4
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宿主さん曰く,「軍艦島には,波の高さが1.5m以内で,かつ船着場が浅いので小さな船では満潮の前後のときしか行けない」とのこと。本土との最短距離は5kmほどなのですが,外海ということで,長崎まで足を運んでも,気象が悪ければ行くことはできません。
幸い穏やかな天気が続いていて,同宿のBATAさんという大阪在住のライダーも軍艦島を目指してきたということで,準備万端です。
翌日(長崎6日目)は,潮の関係で朝6時起床,蚊焼という港から4人乗りのモーターボートで7kmをおよそ30分。端島到着は午前7時過ぎ。船着場はステンレス製の大きな扉で閉ざされていて,隣のハシゴを垂直に上がって下りると,端島小中学校跡の高い建物が出迎えてくれました。
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# 11-5
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モーターボートは1時間後には島を離れて,次はまた満潮の頃(約11時間後)でないと来れないとのことなので,帰りは宿主さんが広告を持っていた海上タクシーを使おうということになりました。端島からのケータイでの連絡ということで,海上タクシーの方は驚かれたようですが,この時点で夕方まで島を探索できることが決まり,素直に喜ぶ私とBATAさんでした。
学校跡の入口にはテントが貼られていて,泊まっていた方が3名。遺構の規模の大きさを考えると,嬉しいところです。島には十数回来ているというTAMAさんにお話を伺うと,多いときには釣りの方や探索の方でちょっとした人気ができるそうです。
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# 11-6
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安全第一ということで,午前中はBATAさんと二人組で,「GON」(ミリオン出版刊)という雑誌の記事の地図を頼りに探索しました。
なお,「GON」に掲載されていた島の写真はTAMAさん撮影のものとのこと。偶然とは面白いものです。
小中学校跡は1958年建設の7階建て。机や椅子が大量に残っています。隣の病院跡では,山積みのカルテと点滴の箱が印象的です。
1945年(くしくも終戦の年)建設の9階建てのアパート(コの字型;65号棟)の屋上(10階)には幼稚園跡の滑り台があります。アパートの手すりは木造で,半分ぐらいは崩れて,物干し台とともに瓦礫となっているのですが,釘は錆びて崩れたらしくなくなっていました。
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# 11-7
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端島のアパートの特徴は,別のアパートや切り立った崖との間に多くの渡り廊下があり,アパートの廊下も通路同様に使えるところです。
特に1918年(大正7年)建設の9階建てのアパート(櫛状;16〜19号棟)は,その脇に地獄段と呼ばれる崖を上って行く外付けの階段があり,その崖の上に9階から渡り廊下で行けたり,戦後に建った隣のアパートに行けたりと,その様子はまさしく立体の迷路です。
アパートには,共同便所,かまどの台所,食器,雑誌,飲み物のビン,水がめまで,いろいろなものが残されています。また,1916年(大正5年)建設の7階建てのアパート(ロの字状;30号棟)は日本で初めての高層鉄筋コンクリート造で,炊事場も共同だったようです。
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# 11-8
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半島側にある炭鉱の施設には,主に午後,BATAさんと離れて単独で行動したときに足を運びました。
昼食のとき,TAMAさんから情報を伺えたおかげで,レンガ造りのしっかりした建物が変電所跡,真ん中に並んで立っているのがベルトコンベアの跡,閉ざされているのが竪坑の跡,円形で平べったいのが選炭場跡など,往時の様子を想像しながら探索することができました。
炭鉱だけあって,風呂は大きいものがあったようで,3階ぐらいの高さにある風呂の跡は,風が通ることもあって爽快でした。
選炭場の近くの船着場(ドルフィン桟橋)が往時の端島の入口だったのですが,今は基礎と島を結ぶ部分がなくなっていて使えません。
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# 11-9
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往時の端島には,郵便局や派出所,スーパーマーケットから床屋,共同浴場,パチンコ屋,お寺に神社まで,生活に必要なものはすべて揃っていたのですが,雰囲気をそのまま伝える物件にはあまり出会えませんでした。日帰りではその数割見つけることができたらよしという感じです。端島にリピーターがたくさんいるのも実感できるところです(私も11月に再訪していますし・・・)。
そんな中,単独で行動しているとき,1・2階が宿泊施設になっている棟(25号棟,5階建て,1931年建設)に,偶然,喫茶スタンドの跡を見つけました。良い雰囲気だったのでBATAさんにも紹介しようとしたのですが,迷ってしまい二度目の到達はできませんでした。
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# 11-10
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島の高台にある幹部住宅(3号棟,4階建て,1959年建設)や神社には,最後に足を運びました。住宅のほうは非常にたくさんのものを見た後ということで,風呂が付いているなどの特徴にも「ふーん」ぐらいしか感じなくなっていました。ちょうど,現在の都市部でも見かける普通のアパートに近い雰囲気です。その他,高台には鉱長宅,職員クラブハウス(三菱関係者の宿泊所)などがあったようです。
端島神社は,島の中央,ほとんどのアパートを見下ろす高所にあり,上方が飛ばされた鳥居には「奉 昭和二年」とあります。祠は空中に浮かんでいるようであり,「軍艦島のシンボル」という風情です。島全体を見渡すのなら,幹部住宅の屋上か,神社の境内がよさそうです。
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# 11-11
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遺構探索が終わって感じたことは,やはりその圧倒的な規模の大きさです。地図で見たらほんの小さな島ですが,集積回路のように複雑で,かつ立体的なので,山に登っているような気分になります。水は飲料用,手洗い用,暑さ対策用などに必要不可欠です。
もうひとつは,鉄筋コンクリート(RC)造の建物が予想よりもしっかりしていたことです。風がなかったこともあってか,危険な感じはほとんどしませんでした(ただし,これは私に高所に対する恐怖があまりないことと,廃村巡りで荒れた木造の家屋をたくさん見てきているので,「それと比べると・・・」かもしれません)。対照的に,木造家屋の大部分,鉄骨造の映画館跡などは見事に崩壊していました。
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# 11-12
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午後4時20分,海上タクシーが端島に到着して,2泊するというTAMAさんご一行に見送られながら高島経由で香焼港に向かいました。
香焼から戻りついた蚊焼の港では,お盆の中日ということで精霊流しをやっていました。1年の間で亡くなられた方を西方浄土にお流しするということで,さだまさしさんの歌(端島が無人島になった1974年のヒット曲)しか知らなければしんみりした行事のようですが,爆竹や花火がバンバン鳴らされる,中国の影響を受けた騒がしいお祭りです。
「精霊流しなんて,そう見る機会はない」ので,宿に戻るとすぐに長崎市内にバイクを飛ばして行きました。
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