山の斜面にある暮らし,あった暮らし 平成13年秋
山の斜面にある暮らし,あった暮らし 平成13年秋
埼玉県秩父市細久保,山掴
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高度過疎集落 細久保の閉ざされた家の前の廃バイクと, 山掴の旧集落の斜面に捨てられていたバイクの残骸です。
2001/9/8 秩父市細久保,山掴
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# 6-1
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国会図書館での調査を続けているうちに,妻の見舞いを続けながら行ける廃村というと,地元埼玉の浦山がよいと思うようになりました。
浦山は秩父市南部の山間部にあり,昭和31年までは秩父郡浦山村という行政村でした。秩父市への編入は昭和33年のことです。
秩父市の荒川沿いは,鉄道が走っているぐらいの盆地を形成していますが,支流の浦山川はそのほとんどが急な渓流となっており,浦山の小集落の多くは,山の斜面にへばりついているような感じの立地になっています。
当然荒川沿いからの高低差も大きく,越後三面,遠州京丸とともに,日本の三大秘境に数えられるというのもうなずけるところです。
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# 6-2
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町から適度な距離の深い山間部というのは,最も過疎化が進みやすい条件であり,その意味では滋賀の旧脇ヶ畑村と似ています。
浦山も高度成長期(昭和40年代)に過疎化の波に洗われ,さらに地形的にちょうど適したダム作りの計画のため,浦山中学校は昭和60年に,浦山小学校は昭和61年に閉校。最後まで残った川の上流の川俣小学校も平成4年に閉校となり,学校はすべてなくなりました。
その後,10年超に渡る工事の末,平成10年に堤高156m,貯水量5800万トンの浦山ダムが完成し,道明石(Michiakashi)と寄国土(Yusukudo;浦山北部の中心集落)が水没しました。道明石と寄国土の名称は,バス停とトンネルに残っています。
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# 6-3
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山の斜面に位置する集落からも離村は進み,ダム近くの西側斜面の若御子(Wakamiko)と再上流部の斜面の冠岩(Kanmuriiwa)は無人となり,地図上で比較的人気がありそうなのは,ダム近くの大谷(Oogai)と日向(Hinata),上流の川俣(Kawamata)と毛附(Ketsuke)くらいです。
水資源開発公団の「浦山ダム」Webを見ると,うららぴあ(ダムサイトにある資料館,休憩所),ネイチャーランド浦山,浦山フィッシングセンターなど,真新しい施設がたくさんあり,自然を前面に出した観光施設による地域おこしへの取組みの様子が伺えます。
「秩父さくら湖」という柔らかなダム湖の名称は,「地域に開かれたダム」という位置付けを象徴するようで,とても今風です。
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# 6-4
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浦山への探索は,9月8日(土曜日)に久しぶりにバイクで出かけました。前年は五島列島まで出かけたバイクですが,平成13年の遠乗りはこのとき限りでした。天気は曇りで,午後から悪くなるとのことでしたが,行けるチャンスが限られていたことから迷わず決行しました。
南浦和の自宅出発は朝7時5分。外環戸田西I.C.から大泉JCT経由,関越道花園I.C.からR.140というルートを経て,浦山の入口にある浦山民俗資料館には9時20分に到着していました。資料館で調べた浦山の人口の推移は,昭和30年が1244人(262戸)に対して,昭和60年が494人(164戸),平成12年が212人(89戸)。地元の方(黒沢久雄さん)による往時の集落の様子をまとめたアルバムと,ダムの絵葉書が目をひきました。
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# 6-5
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今回の目標は,上流部の山の斜面の細久保(Hosokubo)と,川の流れがダムで止まり始めるあたりの東側斜面の山掴(Yamatsukami)です。
資料館からはうららぴあにちらりと立ち寄り,中学校跡の専門学校の施設は通過,旧川俣小学校は5分ほどしか探索せず,躍起で時間を稼いだのですが,細久保への入口では渓谷沿いの道をオーバーランしてしまいました。わからないときは止まって確かめることですね。
細久保への入口は川俣からもほど近い場所で,クルマの進入はできそうにありません。簡易舗装された狭い山道はバイクならば入って行けそうでしたが,山の雰囲気を味わうために歩いて行くことになりました。
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# 6-6
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昭和30年の細久保の人口は76人(12戸),川俣で地元の方に伺ったところでは,現在はおじいさんがひとりで暮らされているだけとのこと。川俣の標高が430mに対して,細久保は700mもあり,2kmほどの距離としてはハードそうな山道です。
途中で細久保を目指して歩かれるおじさん(小倉洋一さん)と出会い,喋りながらの道程となりました。小倉さんは,浦山大日堂の獅子舞などの写真を撮るのを趣味とされていて,写真集の出版もなされているとのこと。細久保は初めてというのは,偶然私と同じです。20分ほどで集落の雰囲気が漂いはじめ,さらに10分ほど進んだ古いスギの防風林のある場所では,黒いイヌのお出迎えがありました。
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# 6-7
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赤いポストが目立つ閉ざされた家の道を挟んだ向かいの洗濯物干し場は,横から見るとスギの切り株の上に作られています。それほどに平地がありません。入口には新しい電気使用量のお知らせが挟んであって,この家が時折使われていることがわかりました。
おじいさん(中山頼之助さん)の家はスギの防風林から入った場所にあり,ご挨拶をすると,小倉さんとともにお話を伺えることになりました。中山さんは明治44年生まれの90歳。スギの防風林は民俗文化財の指定があるとのこと。麓の町の影森から息子さんが週に一度訪ねてきたり,夏休みには多くの家族が集ったりするという古くて大きな家は,中山さんとともに生きているという印象を受けました。
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# 6-8
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細久保の入口で小倉さんと別れて,川俣でおにぎりを食べたのはお昼の1時頃。夕方には妻の大学時代の友人と待合わせがあるので,残された時間は限られています。「とにかく行ってみよう」と山掴に向かう道をたどってみたのですが,はっきりとした入口が見つかりません。バイクも通れないような小道を登ってみると,途中から簡易舗装となり,5分ほどで山掴の旧集落に到着しました。
昭和30年の山掴の人口は158人(33戸),往時は川俣に次ぐ規模でした。標高は500mほどで,それほど山が深いわけではないのですが,旧集落が住宅地図で無人となっていることは確認済みです。袋小路にあるので,ひっそりとしていることが予想されます。
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# 6-9
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山掴では,偶然電気工事の方が街灯の木柱を切り倒したり,電線を片付ける作業をしていました。声をかけるとビックリされた様子とともに「もう電気を使われる方がいなくなった」とのお返事。「クマが出るから気をつけたほうがいいよ」との付け足しもありました。
街灯のあたりでも廃屋が3つほど見えたのですが,斜面を上がって行くと,長屋のように連なった廃屋群がありました。道に対して右側が母屋と山肌,左側が炊事場や小屋と谷間。「なぜこんなところに・・・」と驚くほどの密集のしかたです。道を歩いていて見るだけでも,炊飯器や石臼,バイク,醤油の通い袋など,往時の様子を伝えるものがいっぱい残されていました。
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# 6-10
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写真フィルムを切らしてしまったので,浦山ダムの近くまで買いに出かけて再び山掴に向かおうとすると,山掴トンネルの近くでクルマに乗った小倉さんと再会しました。「近くに廃村がある」というお話をしたところ,ご一緒することになりました。細い道を再び登り到着した山掴には,電気工事の方の姿はなく,どんよりとした曇り空の下,暮らしがなくなった村がさっきより痛々しく感じられました。
山掴では昭和51年に大規模な地すべりがあり,これが全戸離村と深くかかわっているようです。しかし,離村されてもふるさとには変わりはないはずです。単独行動が多い私としては珍しく,小倉さんとふたりでいることでお話できることがとても嬉しかったです。
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# 6-11
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山掴を後にしたのは午後3時5分。急ぎ足で来た道をバイクで戻ると南浦和には5時10分に戻っていました。その後クルマに乗り換えて途中から妻の大学の友人を乗せて,病院着は夕方は6時半頃。「山に行ってきた」とホオズキを差し出すと,妻は嬉しそうに応えてくれました。
この3日後(9月11日),アメリカで同時多発テロが起こりました。世界貿易センタービルの崩壊が「動」ならば,山間の廃屋は「静」。同じ時期ということもあり,滅びゆく過程の風景として,妙な共通項が感じられました。
浦山(山掴と冠岩)には1か月後(10月8日)に再び,妻と知り合った知床の宿の宿主(飯村さん)夫妻と一緒にクルマで出かけました。
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(注) 「山の斜面にある暮らし,あった暮らし」のほとんどの写真は,偶然同行することになった小倉洋一さん(日本リアリズム写真集団)撮影です。掲載のお願いに快諾をいただき感謝いたします。
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