ススキヶ原に陽は暮れて
ススキヶ原に陽は暮れて
栃木県塩原町塩ノ湯事業所,
_____________藤岡町旧谷中村
ススキヶ原に陽は暮れて・・・ 11月の日暮れはほんと早いです。
2001/11/24 塩原町塩ノ湯事業所,藤岡町旧谷中村
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# 7-1
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平成13年10月31日,長くて辛かった妻くみ子の闘病生活が終わりました。享年35歳,子宮ガンの再発でした。葬儀を済ませると,嫌でも気持ちを新たなものに切り替えなければなりません。11月8日には出社して,業務は通常通りこなすようになりました。
この時期に行く廃村として選んだのは,迷いもなく栃木県塩原町の塩ノ湯事業所と藤岡町の旧谷中村でした。
妻の父(義父:長岡久夫)は昭和6年(1931年)北海道生まれ。若い頃は営林署の職員で,北海道から島根県,栃木県と山を移動して,昭和30年頃からおよそ15年間,塩ノ湯事業所という戦後の林業関係の開拓集落で過ごしました。妻も4歳まで,ここで過ごしたといいます。
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# 7-2
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塩ノ湯事業所には,結婚の1月前(平成5年5月)に妻と二人で出かけています。塩ノ湯という温泉宿にクルマを置いて,急な砂利道を歩くことおよそ1km,20分ほど。建物は公衆トイレがぽつんとひとつ。当時の私の目では,古い石垣ぐらいしか集落の痕跡は見当たりませんでした。
妻は「この角のところには公衆電話があって,ハイキングの人向けにアイスクリームを売っていたのよ」と話してくれたのですが,どうもピンと来ません。道を外れて少し歩いたところには,小さなダムがあって,ダム湖の水は硫酸銅を溶かしたような明るい水色で,周りの緑と妙なコントラストを示していました。鉱石があるための色らしく,往時からサカナは棲めなかったらしいです。
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# 7-3
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今回の塩ノ湯事業所は,それ以来8年半ぶり。前日,浦和から東北道を矢板ICまでクルマを走らせて,ご挨拶のため塩原町の妻の実家に泊まり,翌朝に義父にクルマを運転してもらっての再訪です。11月24日は土曜日,晩秋の陽射しは低く,よく晴れているのに渓谷沿いの塩ノ湯は日影だらけです。今回は砂利道までクルマを乗り入れて,事業所のあったところまで行きました。
義父の話によると,塩ノ湯事業所には賑やかな頃には20戸ほどの家が立っていて,昭和45年頃,全戸挙げて塩原町の中心部に越したときには5戸ほどになっていたとのこと。分校は敷地は用意したけれど,教員の手配に見込みが着かず,開かれることはなかったとのこと。
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# 7-4
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スギの植林の様子に多くの廃村との共通点を感じて,人工林の中を少し歩くと,屋敷跡の土台と,茶碗の破片を見つけることができました。林の中には植樹をしたことを記す標柱があり,施業の年月は昭和51年4月とありました。
体格の良い義父は,「若い頃には日が出てから日が暮れるまで働いて,たくさん稼いだ」と振り返ってくれました。昭和40年代頃までは,そんな林業集落が全国あちこちの山林に存在しましたが,林業が衰退した今,林業集落は廃村の中でも特に遠い時代に感じられます。
最後に道を外れて立ち寄ったダムの水の色は,8年半前と同じく印象的な明るい水色でした。
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# 7-5
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お昼を食べた後塩原の実家を後にして,帰り道は佐野藤岡ICで降りて,藤岡町の旧谷中村を目指しました。
谷中村は,明治22年(1889年)の市町村制施行時に下宮(Shitamiya),内野(Uchino),恵下野(Egeno)の三ヶ村の合併により成立,戸数は380〜400戸,人口およそ2300人。その後,足尾銅山から渡良瀬川に流れる鉱毒を和らげる調整池を作るために国策的な土地の収容があり,明治39年に藤岡町に併合されて廃村となりました。「谷中村村長茂呂近助」(谷中村と茂呂近助を語る会編,随想舎刊)によると,旧谷中村民は栃木県内,北海道佐呂間町の開拓地などに四散して,大変な苦労を強いられたとのことです。
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# 7-6
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現在,旧谷中村は渡良瀬遊水地として関東平野の真ん中にそこだけ取り残されたような原野になっています。地図で見ると造成された遊水地の堤防は直線的なのに対して,栃木・群馬・埼玉・茨城の県境は昔の川の流れのまま複雑に入り組んでおり,好対照です。
遊水地は非常に大きく,「旧谷中村合同慰霊碑」を示す看板は,目を凝らしていないと通り過ぎてしまいます。
合同慰霊碑には,午後3時15分頃到着。碑は昭和48年にこれまで遊水地のあちこちに散らばっていた墓石や石仏を集めて整備したものとのこと。碑はすでに傾き始めた陽射しを浴びて,静かに輝いていました。
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# 7-7
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ちょうど碑の場所は,クルマで遊水地に入る入口でもあります。5分ほど走った平成元年にできたという人造湖(谷中湖)のほとりには,大規模な公園が整備されており,谷中村の史跡は「史跡保存ゾーン」となっています。公園の管理は財団法人によりなされていますが,「谷中村役場跡周辺図」という看板には「谷中村遺跡を守る会」との名前があり,史跡の保存は民間でなされていることがわかります。
遺跡のハイライトは,雷電神社跡と延命院跡,共同墓地の跡です。到着は午後4時少し過ぎ。どんどん落ちる秋の陽射しの残りはほんのわずか。誰もいない墓地跡は,日本中でいちばん寂しい場所のように思えました。
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# 7-8
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墓地跡の丘には,「谷中村たより」というチラシがあったり,連絡ノートがあったりで,廃村が100年近く前の出来事とは思えないくらいです。「谷中村のことを風化させてはならない」という守る会の方々の強い意志が感じられます。
「谷中村村長茂呂近助」には,「谷中湖を作るときに,旧谷中村の下宮,内野の一帯は掘り返されて跡形もなく水面下に沈み,かろうじて旧役場跡や延命院跡,共同墓地などが,旧村民の体を張った抵抗によって史跡ゾーンとして残された」とあります。
私も広大なヨシ原に沈む夕陽を見ながら,この風景とともに妻を亡くした例えようのない寂しい気持ちを頭に焼きつけておこうと思いました。
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# 7-9
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公園は4時30分閉園とのことで,急ぎ足で旧谷中村を跡にしたのですが,東北道の渋滞のため南浦和に戻ったときには7時を過ぎていました。明かりの消えたひとりの部屋に帰るのはとても辛いものです。
渡良瀬遊水地は,バードウォッチングに最適ということもあり,平成14年2月2日に再び私の堺に住む両親と3人で,双眼鏡を持ってクルマで出かけました。このときは午前中で3人ということもあって,ツグミなど野鳥を観察しながら,穏やかなひとときを過ごしました。
いろいろ考えた末,主に妻の通勤用に使われていたクルマは,その翌日に手放しました。
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