秋田・消えた分校の記録 平成14年冬

秋田・消えた分校の記録 平成14年冬 秋田県大館市合津,藤里町名不知


雪の廃村 合津冬季分校跡に残されていた唐箕(とうみ)です。壁には「私たちの作品」という文字が見えます。



2002/2/10〜11 大館市合津,藤里町名不知

# 8-1
平成13年9月,大潟村の農家の佐藤晃之輔さんは「秋田・消えた分校の記録」という書籍を無明舎出版より出版されました。佐藤さんご自身が県南の東由利町の分校の出身で,また冬季分校で勤められていたこともあり,読んでいると佐藤さんの分校への思いが伝わってきます。
「分校の記録」によると,戦後の最盛期には秋田県内におよそ150校あった分校(冬季分校およそ30校を含む)は,高度成長期を減少のピークとしてそのほとんどは閉校となり,平成13年現在5校(冬季分校1校を含む)しか残っていないとのこと。少子高齢化社会が進む昨今,分校や山の子供達の姿は,失われたなつかしい風景の代表のように感じられます。

# 8-2
私の廃村紀行の原動力は佐藤さんの前作「秋田・消えた村の記録」であり,妻の闘病も長くなってきた平成13年9月に「分校の記録」とともに大潟村から届いた便りには,胸がときめいたものです。早速目を通した書籍の中には私が友人として紹介されていました。
また,私は平成11年10月に分校跡のある二ヶ所の廃村(大館市合津,鳥海町袖川)に出かけ,平成12年10月に佐藤さんのクルマで妻とともに県北の五つの分校跡(上小阿仁村中茂,大錠,八木沢,比内町小泉,鹿角市切留平)に足を運びました。「分校の記録」でも,これらの縁のある分校跡はとりわけ興味深く感じられました。

# 8-3
また,妻の母の実家は県北の藤里町にあり,「分校の記録」には五つの分校跡が,「村の記録」には11もの集落跡が紹介されています。
妻の母(義母:長岡チセ)は昭和8年(1933年)生まれ。20歳頃まで藤里町藤琴で過ごし,就職で栃木県塩原町に転居されたとのこと。
本を読むのが好きな義母に「分校の記録」,「村の記録」の書籍をお送りしたところ,「村の記録」の藤里町名不知,一の又のページに書の達人として紹介されている相沢米蔵さんは義母の叔父にあたる方だという連絡がありました。なじみの地名がたくさん載っている「分校の記録」,「村の記録」は,義母にもお気に入りとなったようです。

# 8-4
秋田への三度目の廃村探索は,雪の深い平成14年2月に実行することになりました。目的地は分校跡のある廃村で,以前訪れた中でもいちばん印象強く残った大館市合津(Kattsu)と,義母の縁の深い藤里町名不知(Nashirazu)です。
関連の地形図や住宅地図を国会図書館でコピーしたり,「分校の記録」,「村の記録」を読み直したりする下準備は,廃村探索には欠かせないものとなりました。
行程は2月9日から11日まで(土・日・祝日)の2泊3日。交通手段は前回と同じくJR東日本の「三連休パス」。今回は1泊目が鹿角市八幡平の民宿「ゆきの小舎」,2泊目が大潟村の佐藤さん宅です。

# 8-5
初日(2月9日 土曜日)の東北新幹線「やまびこ」の大宮発は8時38分。盛岡まで500km強の道程が2時間10分というのは驚くところです。盛岡では前回に引き続き途中下車して,気になっていたジャジャ麺を食べました。
花輪線は乗継ぎが悪いのでパスして,時刻表には載っていない12時35分の高速バスで鹿角花輪へ。鹿角花輪発14時12分の志張温泉行きバスは終点まで満員でしたが,「ゆきの小舎」に向かう雪道は私を含めて3人だけでした。
八幡平にはちらほらと雪が降っていたのですが,宿主(佐藤郁男さん)に伺うと「昨日は暖かくて雨だった」そうです。

# 8-6
この三連休の「ゆきの小舎」は常連客を中心とした歌と演奏の会があり,私を除く4組11人のお客さんはみんな連泊です。この日は前夜祭とのことで,午後10時頃から午前2時頃まで,「明日があるさ」などを歌い奏でながら賑やかなひとときを過ごしました。
2日目(10日 日曜日)は午前6時20分に起床して,みんな寝ている中,イヌのロコちゃんに見送られながら午前7時頃「ゆきの小舎」を出発。
日曜早朝の鹿角花輪行きのバスはガラガラです。花輪の駅では山菜そばを食べておにぎりをゲット。花輪線十二所から合津までの距離は5.5km。対して秋北バスの別所入口バス停からは4.5km。時間の都合もバスのほうが良く,昨日に引き続きバスを選ぶことになりました。


# 8-7
別所入口着は9時20分。バス停にほど近い畳屋さんにお願いしてリュックをひとつ置いて,温泉がある別所へ。バイクならば意識しない1.8kmの道程もたっぷり30分かかりました。青空のかけらが覗くこともある穏やかな天気で,雪はたまにちらつく程度です。
別所温泉で休憩がてら着替えをして,いよいよ合津に向かう道へ。距離はおよそ2kmです。分岐のところでカンジキを履いて,しばらくは除雪した跡がある雪道を余裕で歩いていたのですが,平原の真ん中で除雪の跡は途切れました。少々あせりながらも,足跡ひとつないパウダースノーの道はわくわく感が勝ります。80cmほどの雪が積もった橋を渡ると,合津の集落跡の到着。別所から約40分の道程でした。

# 8-8
「分校の記録」によると成章小学校合津分校は冬季分校として昭和27年開校,昭和46年閉校。児童数は昭和36〜37年頃の17名がピークだったとのこと。また,「村の記録」によると,合津の戦後最盛時の戸数は12戸,移転年は昭和52年とのこと。
分校跡の建物は,前回(平成11年10月)バイクで訪ねたときよりずっと立派に見えました。雪に包まれた分校跡の風景は,往時とほとんど変わらないのではないでしょうか。教室跡では,前は気が付かなかった農具があり,これを唐箕という脱穀した穀物から籾殻やゴミを除去する器具と知ったのは後日のことでした。無人化して25年,雪の合津の風景はタイムスリップという言葉がとてもよく似合います。

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# 8-9
南北に長い合津の集落跡をうろうろしていると,向こうからマタギの格好をしたおじさんがやってきました。鉄砲を持っているので,獲物と間違えられるとたいへんです。ご挨拶をして「何が獲れるのですか」と尋ねると,「クマを探しているんだが,見当たらないな」とのこと。私としてはこの雪の中,冬眠できずにうろついているクマなどには,絶対に遭遇したくありません。
分校跡の前で雪にもたれながらおにぎりを食べて,別所に戻って温泉に入って暖を取り,やっと乗る機会ができた花輪線の汽車の十二所駅出発は午後3時15分。雪の合津にそれほど隔絶感はなかったのですが,カンジキを履いた往復の行程は,やはり一日がかりでした。


# 8-10
大館で奥羽線に乗り換えて,佐藤晃之輔さんが待つ鹿渡駅への到着は午後4時35分。大潟村の田んぼにはほとんど雪は見当たりません。定番の「ポルダー潟の湯」に行くと,雨の中バイクで足を運んだ前々回のこと,妻と一緒に訪れた前回のことと,想い出が綺麗によみがえります。
「分校の記録」は出版の頃に地元のTV局で取り上げられていて,放送のビデオを見せていただきました。「分校の記録」をまとめられて,「次は何を調べられるのですか」と尋ねると,構想はできていて取材も始められているとのこと。以前佐藤さんに「廃村と過疎の風景」の中では岐阜県旧徳山村に興味があると伺っていたので,増山たづ子さんの写真集をお持ちしてご紹介しました。

# 8-11
3日目(11日 月曜日)は時折陽が射す明るい曇天。相沢米蔵さんに連絡を取ると二ツ井町の息子夫婦の家に居られるとのことで,佐藤さんのクルマで訪ねました。雪のないR.7の沿道はファミレスなど全国チェーンのお店がたくさんあって,冬の秋田という感じがしません。
佐藤さんと相沢さんは「消えた村」の取材のとき以来5年ぶりとのこと。私とは義母のことで重なる話題があり,適度な緊張感のもと話が進みました。相沢さんは今も気候の良い季節には名不知の家に戻って,生まれ育った自然の中で過ごされているとのこと。
お土産に「山かげの 岩間を伝う 苔水の かすかに我れは 浸み渡るかも」という書をいただきました。

# 8-12
訪ねようかどうか迷っていた藤里町の義母の実家や二ツ井町の親戚の家にもひと通りご挨拶することになりました。2軒とも飛込みだったのですが,義母からの連絡があって待っていてくれたようでした。「足を運んでよかった」としみじみ思いました。
藤里町の大沢という集落から3kmほど山に入った名不知には,午後1時過ぎに到着しました。名不知は廃村ということで,佐藤さんは手前の有人集落より先はクルマでは無理と思われていたのですが,行ってみると8m幅の道路はしっかり除雪されていました。ただ急に雪は深くなり,道の脇の雪は80cmはあったように思います。また,2mはある大きな氷柱ができていました。


# 8-13
「分校の記録」によると大沢小学校名不知分校は昭和27年開校,昭和47年閉校。児童数は昭和39〜40年頃の32名がピークだったとのこと。また,「村の記録」によると,名不知の戦後最盛時の戸数は18戸,移転年は昭和55年とのこと。
名不知は,合津よりもさらに細長い集落で,道沿いにおよそ2kmに渡り家が点在しています。
分校跡はやや上流よりの道路から少し入った高台にあり,佐藤さんの案内がなかったら見つけることはできなかったことでしょう。雪を踏みしめて上った高台は平地になっていて,そのことが唯一往時の雰囲気をしのばせていました。


# 8-14
大沢川沿いには,名不知のほか,奥滝の沢,一の又,二の又,大川目という四つの廃村があります。このうち一の又は,豊臣方の落武者 相沢与四兵衛の伝説をもつ相沢さんの旧家があった場所で,相沢さんの書でその由来を示す案内板があるとのこと。
相沢さんの家は,一の又への分岐近くの高台にありましたが,道には踏まれた跡があり,分校跡と比べるとずっと歩きやすかったです。
佐藤さんは雪景色を見に廃村を訪ねられることはなかったそうで,カメラを持ってうろうろする私とそのまわりの風景を,珍しくもなつかしく眺めていたのではないかと思います。

# 8-15
大潟村の佐藤さんの家に戻ったのは午後2時半頃。予定よりもゆっくりした帰宅に奥さんは「楽しいひとときを過ごすことができたのね」と笑顔で迎えてくれました。
遅い昼食を食べながら,地元のTVで取り上げられた往時の合津分校の様子や,数年振りに集まったという往時の先生と児童との会の様子をビデオで見させていただきました。ビデオは佐藤さんが取材で出向いた往時の先生(佐藤慶一郎さん)から借りられたものとのこと。すべての秋田の分校を訪ねられている佐藤さんにして,往時の様子が映っているビデオはこれが唯一とのことです。

# 8-16
大潟村からの旅立ちは,くしくも昨日と同じ鹿渡発午後4時35分の普通列車。「ひとりの部屋に戻るのは辛い」との声に,佐藤さんはしみじみとうなずいてくれました。だんだん青みがかる夕景色には,にわかに降り出した雪が加わりました。秋田行きの列車の中では,初めて大潟村を訪ねたときのことから今回に至るまで,いろいろなことが頭を駆け巡りました。
秋田新幹線「こまち」の秋田発は5時45分。新幹線に乗ってしまえば,東北と埼玉(大宮,浦和)はすぐそばです。南浦和到着は10時少し過ぎ。家までの帰途の中,改めて「強い気持ちで生きて行こう」と心に誓いました。

(注) 平成17年現在,秋田県の分校は2校減り,太平小学校木曽石分校(秋田市),十和田小学校山根分校,中滝小学校田代冬季分校(ともに鹿角市)の3校になりました。



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