棚田の跡にはウメが似合う

棚田の跡にはウメが似合う 山口県徳地町山ノ奥,中河内,中屋敷,
_________大月


廃村 大月の棚田跡に咲いていたウメの花です。里では早咲きのサクラが咲いてました。



2002/3/23 徳地町山ノ奥,中河内,中屋敷,大月

# 9-1
「廃村と過疎の風景」の廃村探索では,中国地方が空白のまま残っていたので,機会があったら行ってこようと構えていました。その中で山口県は,西表島の廃村について丹念に調べられている安渓遊地先生(山口県立大学)が山口市に住まれていることと,軍艦島,野崎島の縁がある長崎ゆかりさんが下関市に住まれていることから,今回の目標となりました。
「重源の郷」という廃村(中河内,中屋敷)を第三セクター運営のテーマパークとして蘇らせた徳地町について調べてみると,山ノ奥,大月,白谷,日暮,黒岩といった廃村らしき集落が浮かび上がりました。

# 9-2
山口行きの日程は,安渓先生やゆかりさんと連絡を取りながら調整して,私の40歳の誕生日(3月20日)のすぐ後で,JASのバースデー割引のチケットが使える3月21日から24日までの3泊4日に決定しました。
旅の始まり(21日 木曜日)は出雲空港から。まずまずの天気。出雲市駅からは山陰線。早咲きのサクラと菜の花がとても綺麗です。益田からは山口線。途中の津和野駅にはSLがいました。出雲市からほぼ5時間で仁保駅に到着。夜は安渓先生のお宅で,平成13年夏に「屋久島フィールドワーク講座」に参加された学生たちの同窓会に混ぜてもらい,薪割りをした後,そば汁など美味しい料理とお酒をいただきました。


# 9-3
翌日(22日 金曜日)は雨のち曇り。安渓先生夫妻には「西表島に生きる」という西表島の廃村 網取の生活についての本をいただいたり,屋久島の廃村 半山における現地調査の資料をいただいたりと,たいへんお世話になりました。
午後3時頃に仁保駅から山口線,小郡から山陽線に乗っておよそ2時間,海峡の街下関へ。ゆかりさんとの待合わせは,成り行きでサクラの名所,日和山公園の高杉晋作像の前。提灯も下がっていましたが,時期尚早という感じで,花見の方はほとんどいません。
この日の夜は,豊前田町の居酒屋「鶏心」で打合わせと称した飲み会。瓦を焼いて作る本格的な「瓦そば」(下関名物)にありつきました。

# 9-4
さて探索当日(23日 土曜日)の朝は,雲ひとつない快晴。春分の頃にしては暖かという絶好のコンディション。下関の大歳神社前待合わせは午前7時50分。ゆかりさんのクルマは真っ赤なRV車(ホンダCR-V)。私が用意した資料を見ながら,ゆかりさんのCR-Vで中国道を下関ICから徳地ICへ。この場合,どちらが案内していることになるのでしょう? 運転には,RV車は初めてという私も参画しました。
まずは,名前にインパクトがある山ノ奥に向かいました。途中通る県道のガードレールはだいだい色。ゆかりさんによると山口で国体があったときに一斉に塗り替えられたとのこと。県単位のことなので,ずいぶん大規模です。

# 9-5
麓の集落の串から山ノ奥まではおよそ1kmの道程。道は家がなくなったところから急に細くなり,川沿いの良い景色の中ながら,大きなRV車ではビクビクです。結局,集落跡の300mぐらい手前に駐車できるスペースがあったので,ここから歩きとなりました。
舗装道がダートに変わって,到着した山ノ奥で最初に目に止まったのが小さなお地蔵さん。住宅地図を頼りに探索しているといくつかの廃屋が見つかったのですが,庭木のツバキがピンクの花を咲かせていたり,結婚記念植樹という札のついた苗木があったりで,荒れた感じはあまりありません。古い農具を見ていると,ゆかりさんがイヌの鑑札を発見。昭和44年という高度成長期の年号がありました。


# 9-6
山の空気や湧き水を味わうというハイキングのようなひとときを過ごしているうちに,1台の軽トラがゆっくりと近付いてきました。運転席のおじさんにご挨拶をして,村の跡の探索に来たとの旨をお話しすると,往時の村の様子を聞かせていただくことになりました。
おじさん(藤本昭次さん)は入口の集落 串に住む74歳。昭和30年まで山ノ奥に住まれていて,スギの手入れや道の整備などでほぼ毎日山ノ奥に通われているとのこと。昔の山ノ奥には13戸ほどの家があり,川沿いには棚田があって,串まで見通しがきいたとのこと。棚田は石垣にその姿をしのぶことができますが,棚田跡にはスギが生えていて,その景色はすっかり変わってしまっているのでしょう。

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# 9-7
藤本さんには,シュロの木からシュロなわを作ってもらったり,軽トラに乗せてもらって炭焼き小屋に案内してもらい,大きな炭をお裾分けしていただいたり,大きなケヤキの木や神木を案内していただいたりで,ずいぶんお世話になりました。
次に目指したのは「重源の郷」という平成10年完成の昭和初期の頃の山村の風景を再現させたというテーマパーク。和紙づくりや草木染めなどが体験できる工房があるのですが,今回訪れた目的は,中河内,中屋敷という二つの廃村の雰囲気を味わうことです。重源(ちょうげん)は,重源上人という鎌倉時代初期に徳地の豊富な森林資源を使って東大寺を再建させたという都のお坊さんの名前に由来します。

# 9-8
「重源の郷」には観光客向けの顔にあわせて,地元における山村文化の伝承の場としての位置付けがあるとのこと。入郷料は500円。
入ってすぐの歓迎館周辺が中屋敷集落跡。800mほどバスに乗って終点の建物が集まっているところが中河内集落跡。綺麗に整えられた萱葺き屋根の大きな建物にはやや違和感があったのですが,その中ではいなか屋敷という農家を再現した建物の雰囲気が気に入りました。2月の秋田で見た唐箕も飾られていました。その他,村の雰囲気は,浮橋神社のツバキの大木と,棚田跡の石垣に残っていました。
ゆかりさんがお弁当を作ってきてくれたので,文化伝承館の前で炭焼き小屋とにらめっこしながら昼食のひとときとなりました。

# 9-9
やや駆け足で「重源の郷」を後にして,あとひとつ,出かけたのが大月(Ooduki)。古い地形図を見ると大月には学校のマークがあり,規模が大きそうな感じがするところからも,注目度の高い廃村です。
手前の集落の奥河内から大月までは2km弱。「これより先は廃村」という雰囲気のゲートがあり,坂道も急ではあったのですが,山ノ奥への道に比べると穏やかな道で,ゆっくりと上がっていくうちに大月に到着しました。左手に瓦葺きの家,右手には萱葺き屋根の家。瓦葺きの屋根の家の前には赤い帽子が吊り下がっていて,住民が居そうな雰囲気もあったのですが,探索してみると人気はありませんでした。


# 9-10
道に沿って小川が流れ,棚田跡に植えられたウメにはまだ花が咲いており,その風情はちょっと幻想的です。棚田の跡にはスギよりもウメがよく似合います。対照的に,脇に栽培されている椎茸は美味しそうで,妙にリアルです。
クルマを置いてゆかりさんとふたりで坂を上がっていくと,学校跡の更地がありました。残念ながらコンクリート作りの門柱らしき柱を除いて,何も残っていませんでした。しかし脇道に入ると木造の廃屋を発見。「トイレにしては大きいよね」とか言いながらうろうろしたのですが,結局何の建物かはわからずじまいでした。

# 9-11
大月は広範囲に渡って家が点在する廃村で,お地蔵さんに手を合わせてさらに坂道を上がると,道を挟んで左右に大きな萱葺きの廃屋が並んでいました。ゆかりさんの一眼レフでの撮影も熱がこもってきました。
右側の廃屋の雨戸は,つい先頃に何かの衝撃で表に向かって倒されたばかりのようでしたが,覗き込むと廃屋の横に走る大きな柱が折れていて,もう長持ちはしない感じがしました。
長い間,暗闇の中だったはずの廃屋の中から窓越しに漏れていた光は,目がまばたきしているようでした。


# 9-12
大月から堀(徳地町の中心)に戻り,藤本さんにいただいた炭を見直して,私もゆかりさんも使う見込みがないことから,「安渓先生のもとに届けよう!」となりました。堀から仁保は,クルマならば峠を挟んですぐそばです。安渓先生の奥さんは唐突に戻ってきた訪問者に,一度読んでみたかった「八重山諸島西表島廃村鹿川の生活復原」という論文の写しを用意してくれました。ありがとうございます。
山口I.C.から下関市内に戻ったのは午後7時少し前。この日の夜は,ゆかりさん宅で夕食をご馳走になって,「一期一会」ということで,ゆかりさんのお父さんに豊前田町のクラブに連れていってもらってという,何とも不思議な夜となりました。

# 9-13
最終日(24日 日曜日)の朝は,完璧に二日酔い。しかし清々しい天気と楽しい記憶に,大歳神社,豊前田町を散歩する足取りは軽やかでした。帰りは関門海峡を越えて,福岡空港から羽田に向かいました。
山口県の廃村探索というテーマから,安渓先生ご一家,屋久島フィールドワーク講座の学生達,ゆかりさんご一家,山ノ奥の藤本さん・・・と,たくさんの方との出会いがありました。下関のホテルでチェックインしたときには抵抗があった40歳も,幸先の良い滑り出しを迎えることができました。妻が知らない新しい私の歴史が始まりました。



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