雪解けの街と静かな不安




  【10】



「……だ、分かったかい?」

 兄の言葉をなんだか現実感もなく聞いてきたウィアは、そう聞かれて、あぁ、とつられるように答えた。そうすれば長年ウィアを見てきただけある兄は、にっこりと笑った中に微妙なプレッシャーを交えてウィアの肩を掴む。

「ウィア、聞いてなかっただろう?」
「……う」

 兄に嘘を付ける訳などないから、ウィアは唇をひきつらせながら正直に謝る事にした。

「ご、ごめんなさい」

 テレイズは大げさに頭に手を当てて天を見上げる。

「まったく、お前はとっくに大人だろう、本当に相変わらず子供過ぎて心配だ……」
「うるせーもうガキじゃねぇぞ、なにせ今の俺はセンセ―なんだからなっ」

 それは反射的に出たいつも通りの兄への憎まれ口で、聞けばテレイズはにやっと口元だけで笑みを作って、ウィアの頭を上から抑えつけるようにぽんぽんと軽く叩いてきた。

「まぁ先生なら生徒になめられないように、せめてシグネット様が話せるようになるまでには大人らしく振舞える練習をしておくべきだな。というか、陛下がお前の口調をマネたりしたら一大事だ」

 顔からずっと笑みを絶やさない兄は、腕を組んで偉そうにそう言った後、指をのばしてこつんとウィアのおでこをつついた。だからウィアはおでこを押さえながら兄を見上げて、兄はこちらを見下ろしてきて……いつも通りの、身長差を思い知らされる大嫌いなその視点で見える兄の姿に、ウィアはふと思う。もうすぐ、こんな風に兄を見る事もなくなるのだと。

 テレイズが次のリパ主席大神官になる、とウィアが聞いたのはつい昨夜の事だった。

 その夜は驚いて実感も何も湧かずに終わってしまったものの、翌日になって書斎にひきずられて『これからの話』を具体的に言われ出したら、これが冗談ではなく本当の事だというのがじわじわとウィアにも実感出来てしまっていた。
 その権力が実質王にも匹敵するだとか、名前が呼べなくなるだとか、現実味のない話はいろいろあったものの、ウィアに現実としてすぐ襲い掛かってきたのは、主席大神官にになったらその役目でいる間は家族や知人との関わりを捨てなくてはならない、という話だった。最初に知らせてくれた兄がいつも通り笑ってさらっと告げた時には想像もできなかったその内容に、ウィアは自分でも意外なくらいに動揺していた。
 いつもあんなにべたべたして心配だ心配だと言っているくせに、普通に笑っている兄が信じられなくて、なんだかくやしくて、ともかくショックで、作り笑いさえ唇が引き攣る。

「もっと……兄貴の事だから、俺と会えないってのに大騒ぎするかと思った……ぜ」

 嫌味を言ってやろうとしたのにその程度がやっとで、ウィアはなんだか涙まで出てきそうになってきてぐっと顔に力を入れた。
 それなのにやはりテレイズは笑っていて、さらっと大した報告でもないような口調で言ってくるのだ。

「俺はお前と違って大人だからね、一度決めたらあれこれ文句は言わないでやるべき事に頭を切り替えるさ。それにまぁ、一応お前も将来的に安泰で立派な仕事が決まった訳だし、俺がいなくてもお前を大切にしてくれて守ろうとする人もいるからね」
「おぅ、兄貴が大神殿でふんぞり返ってるとこで、俺は王様の傍でふんぞり返ってる予定だからな」

 兄の言葉に思い切り胸を張って思い切り嫌味を言ってやったウィアは、だがその筈なのに自分の顔がいつも通り笑えてなくて、しかも涙まで出てきてしまったのが分ってしまった。

「……お前なら本気でやりそうだが、まぁくれぐれも陛下にロクでもない事ばかり教えないようにな」

 あれ、ここで何故涙が出るのだろうと思っても、涙が零れるのは止められない。それなのに兄は表情も変えずにただ笑っているだけで、ウィアとしてはそれにもすごい腹が立つ。腹が立ってたまらないのに、涙が止まらない。

「分ってるよ、だけど将来の為にな、今のリパ大神殿の一番偉い奴はこーんな腹黒くて嫌味な奴だぜってのはシグネットにいろいろ教えてやっとくからな」
「まったくお前は……そんなに俺が嫌いかい?」

 こちらが泣いているのが分っている筈なのに、兄はそれには何も言わずにいつも通り呆れたように顔を顰めてため息をついて見せる。それに腹が立って堪らないウィアは、今度は出来るだけの大声で怒鳴った。

「だーーーーい嫌いだったに決まってるだろっ。昔から兄貴はいつもいつも偉そうで、上から目線だし、背高いし、もてるし、頭いいし……俺放っておいて勝手に親戚と交渉してたし、伯父さんとこ置いて首都いっちまうし、ちゃっかり偉くなってるし……」

 怒鳴ったら余計に涙が出てきて声まで震えてくる。泣くのを止められなくて、しゃくりあげてしまって、完全に鳴き声になってしまう。自分でもどんなガキだよとつっこみを入れてしまって、必死になって泣き止もうとして顔を擦って息を飲み込んで、ひっく、ひっくと漏れる声を抑えて……それでどうにか少し収まってから、本当は話を聞いた時から一番聞きたかった事を素直に言った。

「主席大神官になったら家族と会えないって……それでもいいのかよ兄貴は」

 そうすればやっとテレイズの笑みが寂しそうに曇って、泣きはしないものの辛そうに眉が寄せられた。

「仕方ない、そういう決まりだからね。リパ大神殿の頂点に立つなら、その権力と引き換えに公正と中立を絶対に守らないとならない。だから家族や知人とは離れるのは仕方ない事だ。特にお前は陛下の家庭教師になるんだ、外野にへんな勘ぐりをされる訳にはいかないだろ」
「……それでも引き受けたのかよ」
「指名だったからね、断れない」

 大分泣き声は収まってきたものの、それでもまだ涙が止まらないウィアの頭に、テレイズが手を伸ばしてきて上から優しく撫でてくる。

「ウィア、絶対に会えない訳じゃないんだ、あくまで家族としてお前に会ってはいけないだけで、神官の一人として神殿で顔を合せる事は問題ない。……だからこれからはもう少し真面目に礼拝に通って、俺に元気な姿を見せてくれると嬉しいんだけどな」

 今度はにっこりとした笑みで言われて、ウィアは思い切り息を吸い込んで胸を張ってみせた。

「仕方ねーな、俺がどんだけ大人っぽく、先生として立派になってるか見せにつけにいってやるよ、勿論フェズと一緒になっ」
「あぁ、楽しみにしてる」

 そうしてやはり優しく頭を撫でてくれたテレイズだが、ウィアがそれで涙が止まったのを見ると手を戻し、その表情をいつもの憎たらしい嫌味な笑みに変える。それに何かと咄嗟に身構えたウィアに、笑顔という重圧を込めて兄が言ってきた言葉は、ウィアのそこまでの感情を吹き飛ばすくらいの効果があった。

「……まぁともかく、準備がいろいろあって俺が正式に主席大神官に就任してここを出ていくまではまだ半年は掛かるからな。発表もまだだからお前はこの事を外に漏らさないように、それと……限られた時間だからこそ、ここへ帰ってる間、お前には暫くじっくり陛下の家庭教師として恥ずかしくないようにいろいろ教えておいてやろうと思うんだ」

 しんみりとした空気が吹き飛んで、ウィアの頭は真っ白になる。だがそこからどうにか頭の理解が追いついた時には、ウィアの前には本の山が積み上げられていた。

「へ? いやどうしてそういう話に? って、えぇぇぇえええっ」

 叫んだ時にはテレイズは完全に教師モードに入っていて、教師杖を持って本の山を従えて身構えていた。



---------------------------------------------


 キリの関係でここは短めですみません。
 次回でこのエピソードも終了です。



Back   Next


Menu   Top