旅立ちと別れの歌




  【12】



 最強の騎士セイネリア・クロッセス。少なくともクリュース国内でそれを否定する者はまずいない。だが彼がそう呼ばれるだけの実際のその姿を見た者はそこまで多い訳ではなかった。更にはその姿を見た者の多くは内乱の時の黒の剣にによる惨劇のイメージが大きくて、実際のセイネリアの剣技を見てその強さを実感した者は観客たちの中ではごく少数だった。

 けれども冒険者時代の、そして騎士団時代の彼を知る者達が人々に教えている。一度剣を交わせば勝てないと理解出来てしまって、二度と訓練でさえ彼と勝負をしようなんて思わない、それくらいの圧倒的な強さだと。
 もと黒の剣傭兵団の者達なら、一応セイネリアとレイリースの練習試合は何度か見たことがあるとはいえ、彼らも今のレイリースの実力は知らない。だが、セイネリアにもし勝てる者がいるとすれば、あの最強の騎士と戦っても諦めず何度も向かっていった彼しかいないと確信していた。

 時刻は夕刻に差し掛かる手前のまだ明るい時間。
 競技場には既にシーグルが立っていた。そこにセイネリアが姿を現せば、それまでざわついていた人々の声は急に消える。長身である最強の騎士の姿はそれだけで周囲を威圧し、一歩、一歩、セイネリアが歩いて中央に近づいて行くにつれ、高まる緊張感に人々は表情をこわばらせて息をのんだ。対戦前とは思えない、あり得ない程静かな中、セイネリアが歩くたび足が土を踏みしめる音と甲冑の金属音が辺りに響く。その音にさえ人々は震えあがって体を自然と縮こまらせる。
 そうして、セイネリアが所定の位置に立てば、本当の沈黙が辺りを支配する。

 張りつめきった空気に、誰もが息をすることさえ忘れそうになる中、開始を告げる声がその沈黙を破った。

 走り込むのは細身のレイリース、セイネリアも近づいていくがその動きはゆっくとしていてそれが却って人々の目に不気味に映る。
 最初の剣のぶつかり合いはそのまま押し合いにはならず、大きな音だけを残して人々が気づいた時には二人の距離は一度離れていた。

――やはり、まともに打ち合うのは避けるか。

 セイネリアは思う。
 力では勝てないのはシーグルも分かっている、だから力勝負はしてこない。だがそれは別に恥ずべきことではない、それを補うだけの速さと正確さがあるからこそ彼はそこを更に磨いて自分を凌駕出来ると思うところまでにしてきた筈だ。

 次の剣は、それが分かっているセイネリアでも驚く程の速さがあった。踏み込みの気配と同時に伸びて来た剣をセイネリアは辛うじて避けて、立てた剣の根元と鍔でその勢いを止め、絡めとって下に落とす。だが、落としたと同時に彼は剣を引いていた。すぐに次の攻撃に移ろうとするのを感じ、セイネリアはそこから彼の胴に剣を叩きつける。それは避けられて空を斬り、彼の姿は一歩分、横へとずれてすぐに剣がまた伸びてくる。
 今度は避けきれず、セイネリアは左腕を上げて腕当てで剣の軌道を逸らした。そのまま接近してきたその体を蹴りつけようとすれば、足を上げようとしただけで軸足を逆に蹴られてセイネリアは足を戻すハメになる。
 更には剣が胴を叩いて来ようとする、けれどそれには剣での反応が間に合って、セイネリアは受けると同時に力いっぱいその剣を振りぬいた。
 流石の彼もそれで体勢を崩し一度離れる。
 セイネリアもそれで一度体勢を整える。

 ほぅ、と止めていた息を吐きだ出した音が一斉に会場から聞こえた。シーグルの速さは尋常ではない、観客からすれば今のは一瞬の出来事だったろうとセイネリアは思う。
 今の動きの後でも、シーグルの肩は少しも揺れていない。確かに体力は大分つけてきたようだとそう思えば口元が笑ってしまって、セイネリアは自分が楽しくなっている事を自覚した。

 それでもまだ、まだ俺はお前の動きを追える、その速さではまだ俺に勝てない――思いながら剣を構える。それはいつもの下に剣先を下す構えではなく、シーグルと同じ顔の横に剣を持ち上げる構えだった。
 それに一瞬、シーグルが笑ったのを気配で感じる。
 セイネリアは更に唇を吊り上げて、今度は彼が動くより先にこちらから向かって行った。

 剣と剣がまともにぶつかる。勢いのままぶつかりあってそれを受け止められたから一瞬、剣だけではなく腕当て同士が当たってガツリと鈍い音が響く。
 それでも、彼は力負けをしなかった。そこまで彼が純粋な筋力も相当に鍛えたのだと分かれば更に心が躍ってこちらも力が漲(みなぎ)ってくる、歯を噛みしめて力を込める。それにはさすがに剣を引いた彼だが、力任せに振り切れば、彼は剣の勢いに押されるまま身を引いて剣を受け流した。
 さすが、巧いじゃないか――声にならず、唇だけでそう呟く。巧さ、正確さ、速さ、彼の得意だったそれらのレベルを全部上げて、更には弱点だった体力と筋力もつけて来た。強い、と確信出来る程ゆるぎないその剣の煌めきは愛しい程で、いつまでもこうして戦っていたいという思いさえ感じてしまう。

 けれど、勝負はいつか終わる。勝敗は必ず決まらなくてはならない。
 そしてこの勝負だけは、いくらその彼の強さが愛しくても負ける気はなかった。

 セイネリアは腕をわざと下して、マントの下に隠す。それから一度大きく腕を振り上げればマントが大きく翻り、シーグルの視界からは腕の位置が見えなくなる筈だった。同時にセイネリアは肩から彼にぶつかっていく。当然シーグルはそれを避ける。
 けれど、彼が逃げる方向は見えていた。
 シーグルが避けるだろう方向に剣を横から振りきれば、マントから急に現れたように見えるだろう剣は彼の胴を叩く筈だった。
 だが剣は振り切れない。彼の剣に受け止められてそこで止まる。
 それでも完全に止めきれなくて、シーグルの体はそのまま横に流れていく。だから後は強引にその体ごと吹っ飛ばすつもりでセイネリアは力を込めた。

 そこで、小さな呟きが聞こえた。それが何かセイネリアは分からなかった。

 セイネリアに分かったのは、振り切る筈の剣が完全に止められたという事だけ。
 まさか、という思いに思考がついていけなかった。気づいた時には剣が押し返されてセイネリアは剣から片手を離し、体勢を崩して体を開いてしまっていた。
 そこに、相手の剣がやってくる。
 珍しい、シーグルの吠える声が聞こえた。
 そう思った時には思い切り胴を横から叩かれて、セイネリアはそのままよろけて目を見開き――気付けば空を見上げてがくりと片膝をついていた。

 しん、と静まり返っていた場内が一斉に声で溢れる。
 目の前に彼の剣が下りてくるのを、目を見開いたままセイネリアは見つめた。
 わぁっと耳の中に反響する人々の熱狂の声を聴きながら、セイネリアは自分が負けた事を知った。






 勝者の名が告げられる。
 歓声の中、シーグルも空を見つめて、はぁ、と大きく息を吐いた。
 ずっと乱さずにいた呼吸はそこから乱れる。肩を揺らし、荒く息継ぎを繰り返しながらシーグルはゆっくりと視線をセイネリアへと下した。それから剣を引こうとして……急激に全身を襲った痛みに、シーグルは剣を地面に刺して体を支えると歯を食いしばった。

――やはり一瞬でも、負荷が凄いな。

 シーグルが使ったのはアッテラの肉体強化の術だった。しかも神官が使う、適正以上の、肉体に危険が及ぶレベルの強化術だ。ただ効果はほんの一瞬、剣を一振りする程度の間しか持たない。セイネリアの剣を受けたその瞬間に術を使って、一瞬だけ彼の力を超してその剣を押し返した。肉体の問題的に一度だけしか使えない、失敗したら終わりの手だった。

 そもそもセイネリアに勝ちたい、と事情を話したシーグルにアッテラの最高神官――大師と呼ばれる人物は提案してくれた。ならばアッテラの強化術を使ってみるべきだ、と。
 もし、シーグルが魔法使い達の秘密を知る前だったら、それは絶対に即拒否した事は間違いない。けれど神殿魔法も所詮魔法使いの魔法と同じだと知っているシーグルに大師は言った。

『改宗しろとはいわぬよ、秘密を知っているお前なら一時的にアッテラ信徒の輪に組み込んでも問題ない。なに、リパ信徒なのはアルスオード・シルバスピナだ。レイリース・リッパーは最初からアッテラ信徒という事なら問題なかろう』

 それはあまりに虫のよすぎる話で狡くないかと渋ったシーグルに、アッテラの神官らしく豪快な性格の大師は簡単に言ってくれた。

『そもそもズルというのは楽をしたり、普通は手に入らないような、勝負に水を差す外的な何かに頼ったりした場合に言うんじゃないかな。アッテラの術はちゃんと一般人が努力だけで手に入れられる力だ、お前がきちんとその資格を得るだけの修行をした上なら少しもズルにはならんじゃろ。それでも気になるならリパの術を使わなければいい。アッテラの術だけ使って勝負をしたなら、それはただの鍛えたアッテラの信徒として堂々と勝負をしたことになるだろよ』

 それから豪快に笑って、大師はシーグルに言った。
 真実を知って尚信徒でいられるお前の心根には感心するが、今は何があっても勝つという信念を優先すべきではないのか、と。

 勿論それでもシーグルは悩んだ。悩んでエルに相談した。そうして彼が教えてくれたのは自らが強化術の限界を破ってセイネリアと戦った時の事で――想定外の力にセイネリアの対応が遅れた事、だからそれをもっと上手く効果的に使えれば勝てるのではないかと――それが決め手となって決心した。
 アッテラの神官並みの術を使うのであるから、当然それが認められるだけの修行はした。そうして認められてから、魔法使いサテラが使っていた一時的な信者を作る魔力を混ぜたあの絵墨を使って、シーグルは腕にアッテラの刺青代わりの印を描いてもらったのだ。

『お前さんの体に刺青なぞ入れたら、あの男が怒り狂うからな』

 大師は冗談めかしていったが、シーグルとしてもそれは納得せざる得なかった。
 この見えない印は一定期間しか効果がなく、その間だけリパの聖石を外していれば代わりにアッテラ信徒の輪に組み込まれてアッテラの術が使えるようになる。
 そうしてアッテラの神官として認められるまでに一年、そこから咄嗟の一瞬だけこの術を使えるようにするまで二年近く掛かって……シーグルはこうして帰ってきたのだ。

「どうした?」

 負けて呆然としていたセイネリアだったが、こちらの様子がおかしい事には気づいてしまったらしく、声を掛けられてシーグルは気合いで背筋を正した。

「大丈夫だ、ちょっと気が抜けただけでなんでもない」

 言って、手を伸ばせばセイネリアはその手を握って自ら立ち上がる。
 そうして彼は、すぐにこちらに背を向けると去って行った。

「セ……っ」

 呼び止めようとしたら、体が痛くて声が詰まった。痛みをこらえることに必死で、声を出すことも、ましてや彼を追いかける事など出来る筈がなかった。

――まだ、言う事があるのに。

 そこで察したアウドが駆け寄ってきて肩を支えてくれたものの、セイネリアの姿は既に見える場所にはなかった。



---------------------------------------------


 セイネリアの後ろ姿はきっととぼとぼしょんぼりしていた事でしょう。
 



Back   Next

Menu   Top