【2】 ――良く晴れた美しい青空の下、彼は旅立った。 必ず強くなって帰ってくると、その言葉を残して。 ポロロ……と声の後で竪琴が鳴って、黒い服装の吟遊詩人は一旦口を閉じた。 それから近づいてきた杖を持った人影に向けて、手ぶりまでつけて大仰なお辞儀をして見せる。それに杖を持った……魔法使いキールは立ち止まると詩人に負けず芝居じみた口調で言った。 「おやぁ〜てっきり貴方はついていくものかと思ってたのですけどねぇ」 ここは将軍府の本館の屋上、もと傭兵団枠の吟遊詩人はやたらとのんびり話す魔法使いに作ったようににっこりと満面の笑みを返した。 「そちらこそ、貴方の主についていかれなかったのですか?」 言いながら詩人が腰かけていた石の上で少しよければ、丁度一人分あいた場所に魔法使いも座る。魔法使いはそこで大きくため息をつくと冬の青空を見つめて言った。 「残念ながらぁ私までついていった日にはぁですねぇ〜確実ぅにここの事務仕事が滞っていろいろな方面から泣かれますからねぇ、泣く泣く今回はお留守番することにしました」 「なら何故見送りにもいかずこんなところに?」 「うーん、そうですねぇ……」 そこで魔法使いは空を見上げたまままた大きく息を吐き出す。それから僅かにその唇を自嘲に歪めた。 「最後の最後にぃあれこれ小言を言って送り出すのはどうかぁと思ったというのと……そうですねぇ、やはり顔を見ていたら心配になってついて行きたくなってしまうからぁ……でしょうかねぇ」 少々寂しそうなその声は確かに本音だろうと思って、吟遊詩人もまた空を見上げた。かの青年の旅立ちを見送るどこまでも澄んだ青空はまさに神の祝福のようだと思って、詩人は思わず持っていた竪琴を軽く鳴らして一言呟く――人々を愛し、人々から愛された、世界の命運を背負う青年に幸運を、と。 「さぁて貴方はまだ答えていませんよぉ、何ぁ故行かなかったのです? 聞きましたよ〜貴方は元はシーグル様の歌を作るつもりだったそうではないですかぁ」 歌の余韻のまま空を見ていた詩人は、またにこりと笑みを浮かべて魔法使いに向き直った。 「私もついていきたかったのは山々ですが、なにせここはセイネリア・クロッセスは勿論として歌のネタになりそうな物語に事欠きませんし、なにより国民から愛される少年王の成長までの物語を見届けられるというめったにない機会ですからね、ここで離れるのはもったいないではないですか」 「成程ぉ〜まぁ、それはそうですねぇ」 相変わらずのんびりそう答えた魔法使いは、そこで吟遊詩人に向かって彼もまたにこりと笑って見せた。 「まぁあれですねぇ〜貴方も私も、結局はあの方を信じているからここにいるって事でいいでしょうかねぇ」 「そうですね」 二人して笑顔で顔を見合わせてから、二人してまた空を眺める。そうしてどちらともなくその青い空に向かって呟く。 「必ず、あの人は帰ってきますからね」 言ってから吟遊詩人は再び竪琴に指を乗せる。今度は歌う事なくただ音を鳴らし、魔法使いは暫くそれを目を閉じて聞いていた。 その年の冬はとても寒かった。 いや、例年並みか雪は例年よりも少ないくらいだと宮廷魔術師達は言っていたが、セイネリアにとってはとても寒いと感じる冬だった。原因は確実に体ではなく心の問題で、ここ数年はずっといつでもそばに感じられた彼がいないから心が温まらなくて寒いのだ。一度満たされる事を知った心はそのぬくもりをどうしても求めてしまう。知らなかった頃は無視出来た寒さを今は心がどうにかしたいと訴えてくる。 ――まったく、どれだけポンコツになったんだ、俺は。 そう思っても、まだ今のセイネリアは自嘲して自分に呆れるくらいの余裕はあった。失った訳ではない、あのぬくもりは必ずこの手に帰ってくると分かっているから耐えられない程寒くはない、凍える程辛い訳ではない。夜になれば双子草の前で彼からその日を報告を聞いて、今日も彼が無事であることに安堵して眠りにつける。そんな生活も悪くはないと思える。 「ボスの機嫌がいいという事は、シーグル様の事で何かいいことがあったのでしょうか?」 報告を終わらせたカリンが唐突にそう聞いてきて、セイネリアは思わず口元に笑みを引く。 「大したことはない。あいつが嬉しそうに体重が増えたと言ってきたくらいだな」 昨夜の彼との会話を思い出してセイネリアは目を閉じた。ジクアット山についたシーグルは最初、その細さを叱咤され、あげくに寒さに勝つにはたくさん食べろと油っこい肉料理を大量に出されて辟易したらしい。それでも多少はそれらも食べるのに慣れて、当然彼はそれに見合った運動もしているから前よりも筋肉がついて体重が増えた、とそれを嬉しそうに報告してきた。 『いいか、ちゃんと食べているからな、だからお前が心配するようなことはないぞ』 それで締めくくった昨日のやりとりを思い出せば、その時の彼の顔が目に浮かんで笑い声さえ漏れる。そうすればカリンも笑って傍に近づいてくる。 「毎日雪かきと雪の中を走るのが日課だそうだ。それだけで筋力と体力がだいぶついたということだが……あぁ、髪が伸びたとも言っていたな。お前が後ろに縛っている気持ちが分かったなどと言っていたぞ」 「では見た目も少し変わっているのでしょうね、次にお会いするのが楽しみです」 髪が伸びて少しだけ肉付きのよくなったシーグルを想像してみる。ところがそれがすぐには思い浮かばなくて、我知らずセイネリアは軽く吹き出すように笑ってしまった。 予想が出来ない、それが不快な事ではなく妙に楽しくなるのは初めての経験だった。 「あぁ、たのしみだ……」 呟けば、少しだけ心が暖かくなった気がした。 春がくれば、まずセニエティの街は現政権の樹立記念日であるシグネットの即位記念日の準備で大忙しになる。もう三歳になったシグネットは言葉も大分はっきりしてきて興味の幅が広がり、いつも通りの『イイコ』を式典の間中は保ってはいるものの、パレードの間は花で飾り付けられた建物や露店達をキラキラした目で眺めては足をぱたつかせていた。 「しょーぐん、あれなぁに?」 「あれは花でつくった馬車、なんだろうな」 「ばしゃ? のれるの?」 「乗れないだろ、ただの飾りとして作ったんだろうしな……まぁお前みたいな子供なら馬にひかせるのは無理でも乗るだけは出来るかもしれないが」 「そっかー、きれいだねぇ、はなにのれたらおもしろいねぇ」 この手の公式行事で街に出た場合のシグネットは、時折どうしても気になって仕方ないものを見つけると母親の顔を伺いながらもセイネリアに聞いてくるのがお約束になっていた。本当は飛び出して近くに行ってみたいというのが目に見えて分かってしまうから、セイネリアはそうやって小さな国王と話す度に少し考えた。 だから無事今年の即位記念日の式典を終えたシグネットに、セイネリアはまた約束してやったのだ。 『今年中もずっとイイコでいられたら、聖夜祭では街に連れていってやる』 普通ならどう考えても無茶で母親の許可が下りる訳がないそれは、けれども言ったのがセイネリアならば不可能ではなくなる。それを分かっているシグネットは大喜びをして、その後何か人前に出る仕事がある度にセイネリアに『きょうのおれ、イイコだったよね?』と聞いてくるようになった。 勿論いくらセイネリアが一緒だといっても、聖夜祭の本式典終了までの人でごった返すセニエティの街には連れていくのは流石に無理だ。だが本式典が終わって一段落した『静なる祭』と呼ばれる後の二日間の時ならどうにかならないことはない。勿論その提案は最初ロージェンティに認められはしなかったが、それでも彼女も『俺が抱きかかえて歩けるのは今年が最後だろ』と言えば許可をくれた。というか、結局は彼女と最初にした契約通り、何があってもシグネットだけは裏切らずに守るという誓いを出したというのがやはり大きいのだが。 かくして、城の庭に出る時のように『セイネリアの腕の中』限定でロージェンティが許可を出せば文句を言えるものなどいる訳はなく、だからシグネットはその年の聖夜祭で初めて、馬車や城から見下ろす以外の視点で街を見ることになったのだった。 --------------------------------------------- 吟遊詩人さんは悟ってずっと傍観者してたので久しぶり。 |