【9】 隣の部屋から入ってくる僅かな光に浮かぶ彼の顔を眺めて、セイネリアは口元を歪ませる。目を閉じて動かない彼の髪を顔から払ってやってからその白い貌を愛し気に撫で、暗闇の中では特に獣のように見える琥珀の瞳を細めた。 「馬鹿め……だからお前は甘いんだ」 大人しく彼が今日抱かれたのは、自分に同情したからだろうとセイネリアは思う。部下を失ったその事に同情したのと、あとはやはり罪悪感か。 「本当に……お前は甘い」 口元にあった苦笑が消えて、セイネリアの顔から表情が消える。 「俺はお前のように優しくもなければ罪悪感なぞ感じもしない。部下が死んだからといって嘆かない」 そう、シーグルがおそらく同情したろう自分に生じた動揺は、部下を失った嘆きではない。 クリムゾンを失った事を能力的に惜しいとは思う。彼を失った原因は自分の判断ミスで、やりようによっては彼を失わない方法もあったのではないかと悔いる部分はあった。だがそれを自分に対しての戒めにはしても、嘆いたり、いつまでも後悔したりはしない。 ただ今、シーグルは生きてここにいる。 それがクリムゾンが彼の命をかけて得た結果であるなら、セイネリアは彼に出来るだけの感謝と賞賛を与えねばならないと思った。死人に何をしても意味がないと思っていても、出来るだけ彼の望むように葬ってやろうと思った。彼の望む通り、自分は強くあらねばならないと思った。 クリムゾンの死の話で自分が動揺したのは『もしも』を考えたからだ。 もしもクリムゾンが別の選択をしていたなら。 少しでも決断が遅れていたなら。 ――そうすれば、シーグルが捕まったのはレザではなく蛮族共であったかもしれない。 シーグルが助かったのは偶然による要因が大きい。特に蛮族ではなく、敵とはいえ指揮官に見つかった事、それがそれなりに融通の利く男だった事など奇跡としか言いようがない。 シーグルが蛮族共に捕まっていたなら、恐らく状況は全く違っただろう。 身代金と引き換えにすんなり帰ってきた可能性もないとはいわないが、まずあの時のシーグルの怪我がまともに治っていたかが一番の問題である。治ったとして折った足に後遺症が残っていたかもしれない、ロクな治癒技術のない彼らなら悪化させて命を落とす事になった可能性さえある。考えただけでぞっとする、今この手の中にある彼が失われていたかもしれないと、少しでも頭に浮かんだだけで背筋が凍える、恐怖が腹の底から競りあがってくる。 考える内に、自然とセイネリアの手は顔の傍にまで持ち上げられていた。そうして彼は、指にある指輪の感触を唇で辿ってそれがそこにある事を確認する。それはこの指輪を手に入れてからクセのようになってしまっていた事だった。 「まったく……無様だな」 彼の事を考える度セイネリアは思う、自分はどれだけ弱くなったのだと。 手に入れればもっと気持ちは落ち着くものかと思っていたのにそれは逆で、こうして自分のものになったと確信してからは前よりも感情が安定しない。手に入れた彼を抱いて幸福を感じれば感じるだけ、少しでも彼を離していれば不安が膨れ上がる。彼に何かあったらと考えただけで恐怖に身が竦みそうになる。この今を失う事が怖くて仕方がなくなる。 「本当に、俺はどれだけ臆病者の腰抜けになったのか」 セイネリアは薄闇の部屋の中、指輪に口づけたまま視線を天井に向ける。 シーグルを愛した事で初めて自分の中に生まれた執着は、幸福と隣り合わせの恐怖を心に植え付けた。満たされた感覚が強ければ強いだけそれを失う恐怖も大きく膨れ上がっていき、それにいつまで耐えていられるのだろうと我ながら不安になる。耐えきれなくなったら彼を壊してしまいそうで……自分で自分が信用出来ない。 かといってもう引き返せる筈はない。 彼を手放せる筈がない。 やっと手にいれた心の熱を捨てて、凍てつく冬の荒野の中へと戻りたくはない。何が望みなのか、何をすれば心が満たされるのか、それすら分からず全てをあきらめて何も感じずにいられたあの頃には戻れない。 だから、何があっても彼だけは手放せない。 「何が足りない、何が欲しい……か」 それは俺自身にも問いたい事だと、セイネリアは自嘲と共に呟く。 彼を手に入れて満たされているのにこんなに不安なのは――彼を失うのが怖くて堪らないのは、まだ何か足りないのだろうか。まだ欲しいものがあるのだろうか。 セイネリアは手を下ろし、ゆっくりと眠るシーグルへと顔を向ける。白い貌は暗闇の中、隣室の明かりを受けて主にその右半分だけを白く浮かび上がらせていた。わずかな明かりでもきらきらと光を纏うその銀髪を撫ぜてから、ゆっくりと顔の輪郭を手でなぞる。手が顎までくれば親指でその唇に触れて、その感触を暫く感じる。 そうして――思わず、声に出さずに唇だけでセイネリアは呟く、『愛している』と。まるで、彼に告げるのではなく、自分に言い聞かせるように。言ってからすぐにその唇を苦笑に歪めて、誰よりも強い筈の男はそのまま顔を下ろして最愛の青年に口づけた。 シーグルが目を覚ませば、いつもなら横で寝て自分を抱いている筈の人物は起きあがって傍に座り込んでいた。 顔をあげて彼を見れば、当然ながらこちらを見下ろしていた琥珀の瞳と目があう。 「よく寝ていたな」 起き掛けにすぐ言われた言葉がそれだったから、シーグルは少し眉を寄せた。 「……おかげでな」 もちろん嫌味なのだが、セイネリアはそれにどこか嬉しそうに笑った。 「そうだな」 そうして彼はこちらに手を伸ばしてくると髪を撫でてくる。その時にはもう彼は笑っていなくて、どこか苦しそうに何かを耐えるその顔にシーグルは考える、そして。 「セイネリア……聞きたい事がある」 こちらを撫でていた彼の手が止まる。 シーグルは思い切って起きあがると彼と向かい合った。 「お前と、黒の剣の事だ」 その言葉自体には、セイネリアは表情を変えなかった。 「魔剣から多少は聞いているんだろ、何処まで知っている?」 ただ声は驚く程抑揚がなくて、彼がわざと感情を殺しているのが分かる。シーグルは一度口を開いて、戸惑ってから一度唇を閉じて唾をのみ込む。それからまたゆっくりと開いて、今度は覚悟を決めて声を出した。 「どうやって黒の剣が出来たかは聞いた。だが……それはあくまで魔法使い達が知っている範囲での話だ。実際に剣が……剣の主になる事でお前に何が起こったのかは知らない。俺は、それが知りたい」 セイネリアは口元を歪める。皮肉めいた笑みを浮かべて、軽く眉を寄せてこちらの瞳をじっと見つめて、そして聞いてくる。 「なら、お前は俺について何か気付いた事はあるか? おかしいと思った事があるか?」 「それ、は……」 それにはさすがに一度言葉を詰まらせたシーグルだったが、それでも彼をじっと見返して口を開く。 「あまりに強すぎる……それに、その強さをお前が忌々しく思っている……ように、見える」 セイネリアは金茶色の瞳をすっと細めた。 それから、ふん、と鼻で笑って、唇の笑みそのままで答えた。 「あぁ、忌々しいさ。どれだけ賞賛されようが恐れられようが、この強さは俺のものではないのだからな」 シーグルは息を飲む。 その言葉から予想出来る答えを考えて……だが思考が途中から考えたくないと拒絶して、何も言うべき言葉が思いつかずにただ呆然と彼の顔を見つめた。 視界の中で、セイネリアの顔から笑みが消える。ほぼ表情のなくなった顔の中、ぞっとするほど冷たい瞳で彼の唇だけが動いて淡々と言葉を綴る。 「大気のように世界を覆っていた魔力を全て取り込み、魔法使いギネルセラは黒の剣を作った。剣の力で彼の仕えた王は権力を得たが……その力を独り占めしたいが為にギネルセラを魔剣に閉じ込める事にした。そこまでは聞いているな?」 「あぁ、聞いてる」 その一言を返すだけでやけに喉がひりついて、まるで水分がなくて喉の奥が張り付いているようだとシーグルは感じた。 「ギネルセラは王の策略で裏切者とされ、黒の剣に無理矢理魂を押し込められる事になった。ただ勿論、たとえ魔剣になったとしても彼を裏切った王にギネルセラが従う訳がない。だからギネルセラの魂を抑える為、王の部下である騎士もまた共にその魂を剣に入れられた」 それは確かに魔剣の魔法使いから聞いていた話の内容そのままだった。王を憎むギネルセラの魂を抑える為に、丁度病床に伏していた王の忠実な部下であった騎士を一緒に剣に封じ込めたのだと。 「……だが、ギネルセラの強すぎる憎しみは騎士では抑えきれなかった」 未だ頭はどこか呆然としたまま魔剣に聞かされた通りそうシーグルが呟けば、セイネリアは一度目を閉じた。 「いや、騎士の魂はギネルセラを抑えられなかった訳じゃない」 「どういう事だ?」 聞き返せば、セイネリアはゆっくりと瞳を開く。琥珀の瞳に憎しみを込めて、セイネリアは答えた。 「愚かな騎士はギネルセラに懐柔されたのさ」 シーグルは再び息を飲んだ。その様子を見て、セイネリアの口元に嘲りの笑みが浮かんだ。 「ギネルセラは騎士に言ったんだ――お前はくやしくはないのかと。血の滲むような努力で魔法が使えないというハンデを克服するだけの技能を手に入れたのに、病気の所為で全てを諦め、手放して、二度とと剣を握れずこの世界から無くなる事をくやしくはないのかと言ったのさ」 その言葉に、シーグルの心臓がとくりと跳ね上がった。 それと同時に、シーグルにはその場面と騎士の葛藤を鮮明に思い浮かべる事が出来た。 魔法が使えるのが当たり前の世界で魔法が使えず馬鹿にされた男――それが騎士として頂点を掴むまで、努力して努力して認められて、けれど病気によって理不尽に全てを終わりにさせられようとしている。そんな彼に最後の役目をくれた王に騎士は喜んで従ったろう……けれど、くやしくない筈はない。本当は自分で手にいれたその力を失いたくなかった、騎士としてその力をもっと使いたかったろう、もっと上を目指したかったろう。 「お前が手に入れたその技能を最高の肉体で使ってみたくないか、使う様を見たくはないか――そこでそう聞かれたら、騎士はどう答えたと思う?」 それでシーグルはその先が分ってしまって思わず口を手で押さえた。 まさか、と小さく呟いた後、何も言えなくなった。 「当時の俺は……体だけは作ってはいたが所詮は力頼りの、騎士としては経験も技能もまだ未熟な若造だった。逆に剣にとっては都合が良かったんだろうが……俺が剣に選ばれたのはそういう訳だ」 言うとセイネリアはまたシーグルに向けて笑って見せる。琥珀の瞳の奥に絶望を隠して、顔だけなら彼は笑って、シーグルの顔をじっと見つめてくる。 「セイネリア……だがお前は……」 彼に何か言わなくては、ここで彼の心を少しでも救ってやれる言葉を言わなくてはないと思うのに、シーグルには続く言葉が出てこなかった。そうすればセイネリアは笑みを少しだけ崩して眉を寄せ、唐突にシーグルを抱き締めてくると肩に顔を埋めた。 「幻滅したか? ただ与えられただけの強さの上に胡坐をかいているだけの俺という人間に……お前が目指すような価値もない、ただ剣にとって都合のいい入れ物だっただけだという俺に」 囁くような小さな声は彼らしくなく弱々しい響きで、シーグルは咄嗟に口を開く。 「何を言ってるんだ、幻滅などする訳がない。お前の強さは剣の所為だけじゃない。お前が恐れられているのはただ強いからだけじゃないだろっ」 とにかく彼が自分自身を否定する事を否定したくて、彼の絶望を否定したくて、シーグルはただひたすらに思いついた言葉を声に出す。それでも、我ながら彼を助けられるいい言葉など思いつかなくて、それが悔しくて、瞳からは涙が落ちてくる。 肩で、セイネリアが僅かに笑った気配がした。けれどそれは恐らく自嘲の笑みなのだろうとシーグルは思って……言葉が思いつかない代わりに、ただ彼を抱き締めた。 本当はシーグルには分かっていた。今この時、自分が彼に掛けられる言葉があるとすればたった一言『愛していると』とそれだけだと。それでも自分は変わらず彼を愛していると、そう伝えればいい。けれどもその言葉を封じた自分が彼に言える筈もなく……シーグルはただ自分の愚かさを後悔する事しか出来なかった。 --------------------------------------------- 実はこの話がこのエピソードの一番重要な部分だったりします。 |